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2023年1月 7日 (土)

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 マタイ1529-31には次のように記されています。
29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行き、それから、山に登って座っておられた。
30
 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、手の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に置いたので、イエスはこれらの人々を癒やされた。
31
 群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ112-6には次のように記されています。
2 さて、ヨハネ〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕は牢の中でキリストのなさったことを聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
4
 イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病〔ツァラアト(2017)〕を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 私につまずかない人は幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 牢の中にいるバプテスマのヨハネが、自分の弟子を送って、イエス・キリスト様に、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と質問させた場面です。

 それに対するイエス様のお答えは、イエス様の行為を述べることによって、イエスがキリスト(メシア)であるということを例証したものであったのです。くどくなりますが、イエス様が行った奇跡は、イエスがキリストであるということを証明するものであったのです。新改訳のヨハネの福音書の欄外注を参照すると「しるし」の個所を“あるいは「証拠としての奇跡」”と記しています(ヨハネ2116142030etc.)。
ですから、ガリラヤの人たちも、ただ癒されるというだけではなく、イェシュア(イエス)が、メシア(キリスト)であるということを、イエス様が明らかにしているのだということを自分のものとする必要があったのだろうと思います。

 マタイ1531には、“群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。”と記されています。

 私たちもイエス様の救いにあずかる前は、霊的に目の見えない者でした。
まず霊的に目の見えない者を見えるようにしてくださったのです。

 また救われる前の私たちは、イエス・キリスト様の父である至高の神様とは口のきけない者でした。
私たちは、救いにあずかって後、まことの神様に祈ることが出来るようになったのです。
1
テモテ25には、“神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。”(2017)と記されている通りです。
リビングバイブルは、1テモテ25.6を次のように意訳しています。
“その真理とはこうです。神と人間とは、それぞれ別の岸に立っています。そして、人となられたキリスト・イエスがその間に立ち、ご自分のいのちを全人類のために差し出すことによって、両者の橋渡しをされたのです。これこそ、時が至って、神が私たちに示された教えにほかなりません。”とあります。

 今日の個所にはありませんが、主イエス様は、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにしてくださいました。
私たちも主イエス様の御救いにあずかってから神様の御声を聞くことが出来るようになったのです。

 口のきけない人がものをいうことが出来るようになった、とありますが、私たちも妙なる主イエス様の御業を言い表すことが出来るようにされたのです。

 手や足も主のために用いることが出来るように主はしてくださいました。
私たちの体を義の器として用いることを得させてくださったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
豊かな恵みを感謝します。
主のために生きる日々を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月 6日 (金)

よく見、よく聞く

 箴言2012には次のように記されています。
“聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。”(2017)とあります。

 主が人や生き物を造られたのですから、そんなの当り前だ、という人もいるでしょう。
少し目や耳について考えてみます。
目や耳の構造や機能についてあまり知らない方は、調べてごらんになるとびっくりすることでしょう。
また、目や耳が正常でも、脳の視覚野の細胞や聴覚野の細胞及び他の脳の細胞等も正常に働かないと見たものや聞いた音の認識を正しく持つことが出来ないようです。

 今日は肉体の構造上の話ではなく、イエス様が語られた目や耳に関する聖句を、マタイの福音書の中からその一部を抽出して味わっていきたいと思います。

<目について>
 「27 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。29 右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。」(マタイ5章・聖書協会共同訳)

 「22 目は体の灯(ともしび)である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23 目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6章・聖書協会共同訳)

 「1 人を裁くな。裁かれないためである。2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。3 きょうだいの目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。4 きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7章・聖書協会共同訳)

 “27 イエスがそこから進んで行かれると、二人の盲人が、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びながら付いて来た。
28
 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「私にできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
29
 そこで、イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、30 二人は目が見えるようになった。”(マタイ9章・聖書協会共同訳)

 “10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
11
 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘義〔奥義(新改訳2017)〕を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
12
 持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13
 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、悟りもしないからである。
14
 こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない。15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、立ち帰って私に癒やされることのないためである。』
16
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17 よく言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを 聞きたかったが、聞けなかったのである。」”(マタイ13章・聖書協会共同訳)

 “13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、 入ろうとする人をも入らせない。
16
 ものの見えない〔「目の見えない」(新改訳2017)〕案内人、あなたがたに災いあれ。あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない』と言う。
17
 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか。
18
 また、『祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない』と言う。
19
 ものの見えない〔「目の見えない」(新改訳2017)〕者たち、供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか。
20
 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21
 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのである。
22
 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。” 23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。
24
 ものの見えない〔「目の見えない」(新改訳2017)〕案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは呑み込んでいる。(マタイ23章・聖書協会共同訳)

 「42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43
 このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
44
 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24章・聖書協会共同訳)

 “36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37
 ペトロとゼベダイの子二人とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。
38
 そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」
39
 少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」
40
 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。
41
 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」”(マタイ26章・聖書協会共同訳)

<耳について>
 「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ1115139・聖書協会共同訳)

 目についての個所でも記しましたが再掲します。 
10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
11
 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘義〔奥義(新改訳2017)〕を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
12
 持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13
 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、悟りもしないからである。
14
 こうして、イザヤの告げた預言が彼らの上に実現するのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない。15 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、立ち帰って私に癒やされることのないためである。』
16
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17 よく言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを 聞きたかったが、聞けなかったのである。」”(マタイ13章・聖書協会共同訳)”

 「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」(マタイ1014・聖書協会共同訳)

 「私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。」(マタイ1027・聖書協会共同訳)

 箴言2012には“聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。”(2017)と記されていますが、肉の目だけではなく、霊的な事柄を悟る目や耳もあるということを教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
心の目や耳がいつも健やかで、主との交わりを常に保ちながら歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月 5日 (木)

裁き主はキリスト/救い主もキリスト

 詩編501-6には次のように記されています。
1 賛歌。アサフの詩。
神々の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は語りかけ、日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。
2
 この上なく麗しいシオンから、神は光を放たれる。
3
 我らの神は来られ、黙ってはおられない。火は御前に焼き尽くし、嵐は周りを吹き荒れる。
4
 神はご自分の民を裁くため、上なる天に、また地に呼びかける。
5
 「私のもとに集めよ。私に忠実な者を。いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを。」
6
 天は神の義を告げ知らせる。神こそが裁き手、と。〔セラ”(聖書協会共同訳)とあります。

 この詩は、アサフの詩とありますし、4節の“神はご自分の民を裁くため”とあり、5節に“いけにえを供えて私と契約を結んだ人たちを”とありますから、アサフが考えていたのは、あるいはアサフが啓示されたのは、イスラエルの民に対するものであったのでしょう。神の裁きは、歴史上イスラエルの上に何度も下されてきました。そして最後の審判は黙示録2011-15に記されている審判であり、イスラエル人のみならずすべての人が含まれます。その箇所には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
〔キリストの千年王国の後、現在の天地を主は滅ぼされます。その後に主が新天新地を創造されます{2ペテロ310.13、イザヤ6517、黙示録211}が、最後の審判は現在の天地が消滅した後に行われる裁きです。(筆者挿入)〕
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神の裁きは、判決と同時に報いを伴っていますし、神は、えこひいきをしないということがローマ26-12に次のように記されています。
6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります
2:7
 耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えになり、8 利己心に駆られ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
2:9
 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人〔ユダヤ人以外のすべての人の意(筆者挿入)〕にも、苦しみと悩みがあり、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。
2:11
 神は人を分け隔てなさいません〔神にはえこひいきがないからです(新改訳2017)〕。
12
 律法なしに罪を犯した者は、律法なしに滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、律法によって裁かれます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 裁き主は、キリスト・イエス様です。
ヨハネ522には、「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。

 果たして自分の力で、善き行いのゆえに、神様から素晴らしい報いを受けることのできる人はいるのでしょうか?
聖書はだれもいないと言っています。
ローマ310には「義人〔正しい者(新共同訳)〕はいない。一人もいない。」(2017)と記されています。

 これでは、人間には絶望しか残りませんが、神様は義の神様であると同時に愛の神様でもあるのです。裁き主であられる主イエス様ご自身が贖いを成し遂げてくださったのです。それゆえ主キリスト・イエス様を信じる者は義なる者とされるのです。ローマ321-31には次のように記されています。
21.22 しかし今、神は、別の救いの道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、律法を守ろうと努力するような道ではありません。神は今、「もしあなたがたが、イエス・キリストを信じるなら、あなたがたを受け入れ、罪のない者と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです。
23
すべての人は罪を犯したので、神の標準にはほど遠い存在です。
24
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じるなら、このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるのです。
25
神はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪に対する償(つぐな)いをさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。たとえ、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神は完全に公正であられるのです。キリストが来て人々の罪を取り除く時を、神は待ち望んでおられました。
26
そして今日(こんにち)も、神はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエスが彼らを、義と認めてくださるためです。しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神の公正なやり方に反するのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら彼らが、自分の罪を帳消しにしてくださったイエスを信じたという事実に基づいて、神はそうなさるからです。
27
それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。
何もしていません。
なぜでしょう。
私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。それは、キリストが成し遂げてくださったことと、キリストに対する私たちの信仰に基づいているのです。
28
つまり、私たちが救われるのは、キリストを信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではないのですから
29
神はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。
いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神のもとに行くことができます。
30
神はすべての人を全く平等に扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰によって救われて正しい者とされるのです。
31
それでは、信仰によって救われるのなら、もはや律法に従う必要はないことになるのでしょうか。
いや、全く違います。
私たちはイエスを信じてこそ、ほんとうに神の命令に従うことができるのです。”(リビングバイブル)とあります。

ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
御父の御愛、主イエス様の恵み、キリスト・イエス様が主であると教えてくださった聖霊様の御働きを感謝します。
三一の神様にとこしえに御栄がありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月 4日 (水)

偶像崇拝しない者への祝福と偶像崇拝への警告

 申命記415-40には次のように記されています。
“<15-20節には、イスラエルは選びの民なのだから偶像を造ってはならないし、被造物を偶像として拝んでもいけませんよ、と警告されています。>
15
 あなたがた自身くれぐれも気をつけなさい。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がホレブで火の中から語りかけられた日、あなたがたはいかなる形も見なかった。
16
 堕落して、自分のためにどのような形の彫像も造ってはならない。男の姿も女の姿も、17 地上のいかなる獣の形も、空に羽ばたく翼のあるいかなる鳥の形も、18 地の上を這ういかなる生き物の形も、地の下の水に住むいかなる魚の形も造ってはならない。19 また、目を天に向け、太陽や月、星などの天の万象を見て、それらに惑わされ、ひれ伏し、仕えないようにしなさい。それらは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、 天の下のすべての民に分け与えられたものである。20 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたを選んで、エジプトという鉄の炉から導き出し、今日のように、ご自分の民とされた。
〔日本に住んでいると、いたるところで偶像を見、偶像も物によっては国宝とされています。占星術、そのほかの占い情報もちょくちょく目にします。また太陽を拝む人もいます。主は偶像礼拝や占いを嫌われます。よく当たる占いの背後には悪しき霊がいるのです{使徒1616-19参照}(筆者挿入)〕

21.22節には、モーセがカナンの地に入ることを許されなかったことが記されています。>
21
 しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたがたのゆえに、私に怒り、私がヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が相続地として与える良い地に入ることもないと誓われた。22 そのため、私はこの地でヨルダン川を渡ることなく死ぬ。しかし、あなたがたは渡って行って、この良い地を所有する。
〔モーセがカナンの地には入れなかったのは、「主に不信を働き、主を聖としなかった故」です{民数記2012}。モーセが言うように民が不平を言わず、民がモーセを通して主にお願いしていれば状況は変わったのでしょうが、この出来事の時にモーセの内にある罪があらわにされたのです。(筆者挿入)〕。

23-28節には、偶像作成と偶像礼拝、およびそれを行った場合の罪の刈り取りについて次のように記されています。>
23
 あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。
24
 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は焼き尽くす火、妬む神である。
25
 もしあなたが子や孫をもうけ、その地で年を取り、堕落してあらゆる形の彫像を造り、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪とされることを行い、主を怒らせるならば、26 私は今日あなたがたに対して、天と地を証人として呼び出す。あなたがたは、ヨルダン川を渡って行って所有する地から取り去られ、たちまち滅び去 る。あなたがたはそこで長く生きることはできない。必ずや滅ぼされる。27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたがたをもろもろの民の中に散らされる。しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が追いやる先の国々で僅かな者は残される。28 あなたがたはそこで、人の手で造られた神々に仕えなければならない。それらは木と石でできていて、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐ こともできない。
〔偶像を礼拝すれば、偶像に仕えることになります。偶像にとりついているのは悪魔悪霊です(1コリント1018-22参照)から、偶像礼拝は悪魔の奴隷となることです(エペソ21-3)。(筆者挿入)〕

29-31節には、偶像から主に立ち返れば(回心すれば)、主は交わりを再開してくださるということが記されています。>
29
 しかし、その場所から、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、あなたは主を見いだすことができる。30 これらすべてのことがあなたに臨んであなたは苦悩に満ちるが、終わりの日には、あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けるだろう。31 あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れることもないからである。
〔新約時代においては、キリストを主としていないことは偶像礼拝をしていることと同じです(ヨハネ169)。回心とは、キリスト以外を主としていたことを放棄し、キリストを主とすることです(ローマ1091テサロニケ19.10)。父なる神様を知るのはキリストを通してです(ヨハネ1478191テモテ25)。(筆者挿入)〕

32-34節では、出エジプト19.20章のシナイでの出来事や出エジプト4-14章に記されているような奇跡の出来事を、モーセはイスラエル人に回顧させています。>
32
 あなたに先立つはるか昔、神が地上に人間を創造された最初の時代に遡り、天の果てから果てまで巡って、尋ねてみるがよい。これほど大いなることが起こったであろうか。そのようなことを聞いただろうか。33 火の中から語られる神の声を聞き、なお生きているあなたのような民があったであろうか。
34
 あるいは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がエジプトで、あなたの目の前でなさったように、さまざまな試み、しるしや奇跡を行い、戦い、力強い手と伸ばした 腕、大いなる恐るべき業を示し、諸国民の中から一つの国民をご自身で選び出された神があったであろうか。

35-40節には、ヤハウェ(主)こそが神であることを心に留めて歩み続けなさい、という勧めが記されています。>
35
 あなたは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕こそ神であって、この方をおいてほかに神はいないということを示され、知るに至った。
36
 主は、あなたを訓練するために天から御声を聞かせ、地上では大いなる火を見せ、また、あなたは御言葉を火の中から聞いた。
37
 主は、あなたの先祖を愛されたので、その後に続く子孫を選び、ご自身が大いなる力によって、エジプトからあなたを導き出された。
38
 主は、あなたより大きく、強い諸国民をあなたの前から追い払い、彼らの地に導き入れ、これを今日のように相続地として与えてくださった。
39
 そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。
40
 だから今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすればあなたもあなたの後に続く子孫も幸せになり、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを愛し、あなたに信頼して、あなたに従い続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月 3日 (火)

カナンのある異邦人女性の信仰(イエス様を主と信じ、謙遜の心を持ち、粘り強く知恵深く求める人)

 マタイ1521-28には次のように記されています。
21 イエスはそこをたち、ティルス〔ツロ(口語訳、新改訳)〕とシドンの地方に退かれた。
22
 すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
23
 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
そこで弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ます。」
24
 イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
25
 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。
26
 イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、
27
 女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
28
 そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ〔直訳「大きい」(欄外中)、greatKJVNIV)〕。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 登場人物はイエス様、弟子たち、カナンの女性です。
カナンの女性の娘は病気に苦しめられていました(28)。
カナンの女性も、娘の病気に苦しめられ、娘の母親は、病気の原因は悪霊であると考えていました(22)。

 病気の娘の母親はイエス様を「主よ、ダビデの子よ」と呼んでいます。
この女性は、異邦人であり、異邦人の地に住んでいながら、イエス様が、「主」であり、「ダビデの子」であると認識していたのです。
イスラエル人であっても、皆がこのように認識していたわけではありませんでした。
政治家や宗教指導者たちでさえ、彼らの多くは、イエス様が「主」であり、「ダビデの子」であるとは認識していなかったのです。
イエス様をある程度信じていた人たちでさえ、そのようには信じてはいませんでした。
今日の個所の次の章のマタイ16章には次のような文が記されています。
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14
 弟子たちは言った。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます。」
15
 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
16
 シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
17
 すると、イエスはお答えになった。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様を信じていたイスラエルの人たちの多くは、洗礼者ヨハネ、あるいはエリヤ、あるいはエレミヤ、あるいは他の預言者の一人というような認識であったのです。

 「主」と「ダビデの子」の解説について、ローマ13.4には次のように記されています。
“神のひとり子、主イエス・キリスト・・・は、人の子として、ダビデ王の家系にお生まれになりました。しかも、死んでのち復活することにより、神のきよい性質を備えた、力ある神のひとり息子であることが証明されたのです。”(抜粋・リビングバイブル)とあります。
「主」とはキリストの神性を表しています。
「ダビデの子」とはキリストの人性を暗示しています。

 この女性は、何度も何度も「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んでイエス様一行について着ていたのです。(22.23

 イエス様が、この女性に返事をしないものですから、この女性は何度も叫ぶ羽目になったのですが、この女性は、あることに気が付いたようです。
娘もつらいだろうが、娘を愛している自分自身が非常につらいのだ、と気づいたのです。
25
節には、この母親が、「主よ、私をお助けください」と言っていると書いてあります。

 主イエス様は、私たちキリスト者にも同じようなお取り扱いをすることがあります。私たちの心の状態を気付かせるために。

 この時代のイエス様の宣教は、神の経綸によればイスラエル人に福音を伝える時代であったのです(24)。
それゆえイエス様は、この女性に「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました(24)。

 しかし、女性は食い下がります。主イエス様を本当に「主」{ギリシア語言語では「キュリオス」(主、神、主権者、・・・等の意があります)}と信じているのです。
洗礼を受けても自分の願いがかなわないとイエス様から去っていく人がいますが、この女性はその様な人ではなく、イエス・キリストを「主」と心の底から信じていたのです。

 さらにこの女性は謙遜と知恵を持っていた人であったのです。24-27節には次のように記されています。
24 イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
25
 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。
26
 イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、
27
 女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」”とあります。

 私なども、主が、なかなか願いに応えてくださらないことを通して、気付きを与えられる場合もあれば、真理を教えられるようなこともあります。
この女性は、イエス様とのやり取りを通して、より謙遜になり、知恵も与えられたのではないかと想像します。

 主は、この女性に、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(28)と答えられたのでした。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様は、「求めなさい、そうすれば与えられます。」と言われましたが、そのお言葉の通りをこの女性に示されました。
それだけではなく、この女性とのやり取りを通して、イエス様のご愛をより深く知ることが出来ます。
いかなる事々をも主に祈り、また祈り続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ772017
「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ432017
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」(1ヨハネ514・口語訳)

2023年1月 2日 (月)

善悪を判断する心は健全だろうか/聖なる者はますます聖なる者となりなさい

 箴言2011には次のように記されています。
新改訳2017は、“幼子でさえ、何かするとき、その行いが純粋かどうか、真っ直ぐかどうかを識別する。”と訳し、
新共同訳は、“子供も、行いが清く正しいかどうか行動によって示す。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“若者であっても自分の行動を省みる。その行いが清いか、まっすぐか、と。”と訳し、
リビングバイブルは、“小さな子供でも、純粋か正しいか、行動を見ればわかります。”と訳しています。

 「幼子」(新改訳、文語訳、口語訳)、「子供」or「小さな子供」(新共同訳、リビングバイブル、フランシスコ会訳)、「若者」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナアル」で、幼少期から青年期の子(人)に対して用いる語と辞書に記されています。

 幼児のころから、行為の純粋性あるいは正しさというものを判断する心が備えられていることを聖句から教えられます。行為の正しさや純粋性の判別は自他に及びます。それゆえ、自分が悪いと思うことをしているときは、心が痛むのです。
しかし、悪いことをしても心の痛まない人、さらには悪いことをすることが快感だという人もいるようですね。
そのような人たちは、どうしてそのようになってしまったのだろうかと思います。
聖句を思いめぐらすと、ローマ1章に心が留まります。
 ローマ118-32には次のように記されています。
18 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19
 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20
 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の 余地がありません。
21
 なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22
 自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、23 不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。24 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。
25
 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。
26
 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28
 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました
29
 あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、30 悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行うばかりか、それを行う者を是認さえしています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ120には、“神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。”とあります。
 昔の人たちの多くは、上記の聖句のように、様々な被造物を作られたお方は神様であると認識していたのではないかと思います。
しかし今や進化論を信じる人たちは、目に見えるものを創造主なる神が造ったとは考えていません。
そのような人たちにとって、聖書は正しい書物ではないのです。
日本では、幼少のころから進化論に基づいた教育をし、進化論が正しいという認識の上で話が進められていきます。

 その様な現代人は悲惨です。
それは創造者であり、おのずから存在し永遠であるお方すなわちヤハウェ(主)である神、全能であり、全知である神に敵対し、放任されてしまうからです。
人が神に放任されて喜ぶのは悪魔(サタン)です。

 神様は、聖書の最後の書である黙示録の最後の章である22章に、「不義を行なう者は不義を行なうままにさせ、穢れた者は穢れるままにさせておきなさい。しかし、義しい者は正義を行ない続け、聖なる者は聖化され続けさせなさい〔「聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(2017)、「聖なる者はさらに聖なる者となれ」(聖書協会共同訳)〕」(11節・岩波訳)と記させました。

 上記聖句の下線部分に関連する聖句も記しておきます。
「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(へブル10102017)、
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」(1ペテロ115・新共同訳)
 「生活のすべての面で」の個所のギリシア語言語を直訳すると、「すべての言動において」となります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主キリスト・イエス様の現れを待ち望む者として、すべての言動において聖なるものとさせていただけますようお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月 1日 (日)

主は来られる

 タイトルが「主は来られる」とあっても、私は先見者ではなく、今までの順番どおりに聖書を開いたら詩篇50篇であったのです。
でも、主が迎えに来てくださることを待ち望んでいます。
「マラナ・タ(主よ、来てください)。」(1コリント1622b・新共同訳)

 詩編50:1-aには次のように記されています。
1 賛歌。アサフの詩。
神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。
2
麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
3
わたしたちの神は来られる”(新共同訳)

 1節の“神々の神、主”と訳されている個所のヘブライ語は、エル(神)エロヒーム(神の複数形)ヤハウェ(主)となっています。
「エル」には全能者の意もあります。
この個所をリビングバイブルは、「全能の神である主」と訳しています。

 2節の“麗しさの極みシオンから、神は顕現される。”という個所を、今日は、天の都エルサレム(シオン)から神は顕現される、と捉えさせていただきます。

 3節の「私たちの神」のヘブライ語原語は「エロヒーヌ」です。

 これからの時代を思うとき、私たちの神(神のひとり子の御子なる第二位格の神)であり、主であり、キリスト(メシア)であり、イェシュア(救い主、イエス)であるお方が、空中まで迎えに来てくださるという空中再臨を、私は待ち望みます。
キリストの空中再臨は、キリストの地上再臨の前に起こります。

 キリストの空中再臨は、いつ起こるのかはわかりません。
イエス様がいつかはわからないよ、と語られたからですが、どのような状態になったら来られるのかということは教えてくださいました。

 マルコ13章には次のように記されています。
3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
4
 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現す
る〔be fulfilled(KJV)〕ときには、どんな徴があるのですか。
5
 イエスは話し始められた。
「人に惑わされないように気をつけなさい。6 私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の聖句の内容はすでに起きています。

 パウロは、終わりの時代の心の状態について次のように述べています。
1 このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。
2
 その時〔「その時」は補足(欄外中)〕、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒涜し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。3 また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、4 人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり〔別訳「高慢になり」(欄外中)〕、神よりも快楽を愛し、5 見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。”(2テモテ3章・聖書協会共同訳)と記されています。

 現代はまさしく上記の聖句のようです。

 キリストの地上再臨の前の大患難時代の預言はたくさんあります。
しかし、キリストの空中再臨は、いつ起こってもおかしくはないのです。
キリストの空中再臨の日時は、御父の専権事項なのです。
マタイ24章には次のように記されています。
36 「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
37
 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38 洪水になる前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39 そして、洪水が来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。40 その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。41 二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。
42
 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである。43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 「いつかは知らねど」という聖歌の1.4.5節を下記します。
“1.いつかは知らねど 主イエスの再び この世に来たもう 日ぞ待たるる その時聖徒は 死よりよみがえり 我らも栄の姿とならん
4.その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び 負いて進まん 嘆きも悩みも しばしの忍びぞ 楽しきたたえの歌と変わらん
5.携え挙げられ 主イエスに抱かる その日の喜び いかばかりぞ 備えは終われり いざ来たり給え 花婿なる主よ 救い主よ”(新聖歌465、聖歌623、聖歌総合版669)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
自分の心境を「いつかは知らねど」の歌詞で表しました。
マラナ・タ
この年も主を崇め、主に導かれ、主を愛し、主に従い、主に信頼して歩み続けることが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月31日 (土)

子や孫に語り伝えるべき事柄

 申命記49-14には次のように記されています。
9 ただ、あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れず、生涯、心から離さないように努め、それらのことを子や孫たちに語り伝えなさい。
10
 あなたがホレブであなたの神、主の前に立った日、主は私に言われた。
「民を私のもとに集めなさい。私の言葉を聞かせよう。そうすれば、この地上で生きているかぎり、彼らは私を畏れることを学び、それを子らにも教えるだろう。」
11
 あなたがたが山に近づき、麓に立つと、山は燃えて火が中天に達し、闇と雲と密雲が垂れ込めていた。
12
 あなたがたの神、主は、火の中から語りかけられた。語られる声をあなたがたは聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。
13
 主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒〔十のことば(2017)〕である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。
14
 主はその時、あなたがた〔イスラエル(筆者挿入)〕が渡って行って所有する地で行うべき掟と法を教えるように、私〔モーセ(筆者挿入)〕に命じられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節の「ホレブ」の意味は、荒れ果てた、の意ですが、シナイ山と同じ山として呼ばれていることが多いように思います。 
聖書辞典を抜粋すると、“ホレブは山脈名、シナイは頂上名、あるいは、ホレブは北方の低い山脈部分でシナイは南方の高い頂上の部分を指す、またはホレブはシナイ山の低い部分、などと区別する人もあれば、両者は全く同じ山を指していると考える者もいる。”と述べられています。

 13節の「十のことば」(2017)と訳されている中の「ことば」のヘブライ語原語は「ダーバール」で、原義は言葉、ですが、それ以外にもいろいろな意味を持ち、「戒め」の意もあります。

 10節の“あなたがホレブであなたの神、主の前に立った日”というのは、出エジプト193でしょう。
14
節は、出エジプト211を指していると思います。

 11.12節の個所を出エジプト1916-20は次のように記しています。
16 三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
17
 モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。
18
 シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19
 角笛の音がますます力強くなったとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。
20
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシナイ山の頂に降り立ち、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 13節には“主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒〔十のことば(2017)〕である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。”とありますが、十戒の内容を告げられたのは、出エジプト202-17に記されています。
ヤハウェ(主)が十戒の御言葉を石の板に最初に記されたことと関係する箇所は出エジプト24123118にあります。
出エジプト3118には、“主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の証しの板、神の指で書かれた石の板を授けられた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 そしてモーセがシナイ山にいる間にイスラエルの民は罪を犯しました。そのいきさつは出エジプト32節に記されています。
イスラエルの罪の経過の中で、主が書いてくださった十戒の石の板(出エジプト321516)をモーセは砕きました(出エジプト3219)。

 その後イスラエルに与えられた十戒の石の板は、ヤハウェ(主)がモーセに二度目に与えられたものでした。出エジプト341.28には次のように記されています。
1 主はモーセに言われた。「前のような二枚の石の板を切り出しなさい。そうすれば、私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記そう。/
28
 モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉を書き記した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス・キリスト様を信じる者はだれでも救われます。
しかし、神のきよさ、神の正しさがわからないと、イエス様を信じて救われたといっても、その恵みの偉大さがよくわからないのです。

 イ△ラ□の世界やキリスト以上に政治家が高い地位についている共産主義の世界では、主であるキリストを冒涜している状態ですから、それは罪であると、キリスト者ならばわかることです。
しかし、民主主義で、キリストを信じることについて制約を受けることのない政治体制の中に暮らしていても、無意識に罪を犯していることもあります。
サタン(悪魔)は、この世に主が教える価値観とは別のものを導入しています。
コロサイ28には次のように記されています。
“人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており(1ヨハネ519)、キリストに従うものではありません。”(新共同訳)とあります。
民主主義といっても、ヒューマニズムと経済機構自体がむさぼり(貪欲)を基底としています。
むさぼりは、十戒の第10番目に、それは罪ですよ、と記され、
ヒューマニズムは、十戒の第一番目に抵触します。
主権在神が正しいのですよ、と聖書は教えてくれます。
十戒を学ぶことは罪を知るためにも大切なことです。さらに十戒をどのように解釈するのかを山上の垂訓からも学ぶことが出来ます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
十戒を与えてくださり感謝します。
それによって罪とは何であるのかを教えてくださり感謝します。
さらに、主イエス様が、山上の垂訓として語られた内容を通して、十戒の意味の奥深さを教えてくださり感謝します。
自分で自分を救うことのできない罪人を、あなたは憐れんでくださり、御子をこの世に送られ、そして御子は十字架の死をもって罪を贖われました。
大いなる恵みを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン。 
・・・・・・・・・・・・・・
“我が為 十字架の悩みと恥を 受けさせたまいし 我が主の愛よ 血潮の功に 滅びの火より 逃れし我が身は 歌わざらめや”(聖歌280番、聖歌総合版261番、1節)
<追記>
救われる前には養育係も必要なのです。それは罪とは何かを知るためです。
23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
25
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。”(ガラテヤ3章・新共同訳)

2022年12月30日 (金)

人を汚すものとは

 マタイ1510-20には次のように記されています。
10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。
「聞いて悟りなさい。
11
 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
12
 その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
13
 イエスはお答えになった。
「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。14 放っておきなさい。
彼らは盲人を手引きする盲人である。盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15
 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
16
 イエスは言われた。
「あなたがたも、まだ悟らないのか。
17
 口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。19 悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は、心から出て来るからである。20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ファリサイ派の人々は、イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは、長老たちの言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(マタイ152・聖書協会共同訳)と言いました。
現代の小学生は、衛生上、食事の前には手を洗ったほうが良いことを知っています。

 イエス様は、食事の前に手を洗う必要はない、と言われたのではありません。
マタイ151-9の個所に、手を洗う必要はない、とは記されてはいません。

 レビ記には、様々な穢れやけがれた動物などのことが記されています。
レビ記にそのようなことが記されているのは、病原菌云々ということもあったでしょうが、それ以上に、その教えから霊的な目をもって理解する必要があったのではないかと思います。

今日の聖書個所では、イエス様は物質的なことではなく、心の穢れについて語っておられます。
それは11節の、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」というイエス様の御言葉からわかります。
主イエス様は、心のうちにある罪が言葉となって出てきて人を汚すのです、と教えられたのです。
 18-20節には、
「・・、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。19 悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は、心から出て来るからである。20 これが人を汚す。・・・。」と記されています。
上記のような言葉や行為を発した人は、内に住む罪が、すでにその人を汚していますし、それを見聞きした人は、それを自分の中に受け取ったときに汚されるのです。

 コロサイ35-10には次のような御言葉があります。
5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
6
 これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。
7
 あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。
8
 しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜〔別訳「悪口」(欄外中)〕、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。9 互いに嘘〔偽り(2017)〕をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、10 新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。”(聖書協会共同訳)

 聖書の御言葉をそのまま語っているのに非難を受けることがあります。
今日の聖書個所の中にイエス様の次のようなお言葉があります。
12 その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
13
 イエスはお答えになった。
「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。14 放っておきなさい。」”と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
エペソ429には、「悪意のこもったことばを口にしてはいけません。相手の益となり、助けとなること、また祝福を与えることだけを話しなさい。」(リビングバイブル)と記されていますが、私の心をそのようになさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」{(詩編1915・聖書協会共同訳)口語訳、新改訳は14節}

2022年12月29日 (木)

自分の力で自分の心をきよくすることは出来ない

 箴言209には次のように記されています。
だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。2017)とあります。

 キリスト者で、救いは確かなのですが、きよめ派に属している人の中には、きよめのメッセージを聞く機会が多いので、きよめの聖句やメッセージを取り違えて解釈し、自分で頑張って清くならなければ、と考えてしまう人がときにいます。
そのように考えてしまう人の中には、罪を犯したときに、清くなったはずなのにどうしてまた罪を犯してしまったのだろう、と考え苦慮する人もいます。
自分のきよめは間違いではなかったのだろうか、あるいは、きよめなどというものはないのではないだろうか、あるいはきよめられたと思ったのは錯覚であったのではないであろうか、などと考えて、きよめから遠ざかってしまう人もいます。

 また別の捉え方をする人もいます。
それは、倫理道徳的にきよくなろうとしたが、そうなることができず、その内、ヘブル1010このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。2017)という聖句に出会い、行いはどうでもよいのだ、と考えてしまう人もいるのです。

 さて、今日の聖句は、だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。という内容なので、このことだけに絞って述べていこうと思います。

 自分で、自分の心をきよめることの出来る人はいません。
人の内には、生まれながらに罪が住んでいるからです。
詩篇517には、“わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。”{(新共同訳)口語訳、新改訳、リビングバイブルは5節}と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、私は生まれながらの罪人です。母が私をみごもった時から、罪人でした。と訳しています。
 また、ローマ512には、アダムが罪を犯した時、罪が世界に入り込みました。アダムの罪によって死が全人類に広まり、すべての人は死ぬように定められました。それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。と記されています。

 人は、生まれながらの罪人として生まれてきたのです。アダムの堕罪以後に生まれた人々は、性善説ではなく性悪説があてはまるというのが、聖書の教えです。

 救いにあずかったキリスト者といえども自分で自分の心をきよめることは出来ません。心をきよめてもらえたとしたら、それは主なる神様の恵みの御業(みわざ)の故です。
 ヘブル1010には、・・・、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。(新共同訳)と記されています。
キリスト者は、誰でも聖なる者とされています。
これは、神のものとして聖別された、という意であろうと私は思います。

 しかし、キリストの血は、聖別するだけのものではありません。
実質的にもきよくするのです。
1
ヨハネ17には、・・、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(新共同訳)と記されています。
光の内を歩んでいると、自分の罪を示されることでしょう。
罪を示された時の対処方法が、1ヨハネ19に次のように記されています。
2017
は、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。と訳し、
リビングバイブルは、・・、もし自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。と意訳しています。

 イエス様の血は、罪をきよめますが、人がそれを体験するためには、罪の告白も大切であることが分かります。

 きよめと主の霊の働きについて、2コリント317.18は次のように記しています。
“17
主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。18 私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。(聖書協会共同訳)とあります。
また、ローマ89には、“神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。”(新共同訳)と記されています。

 主のおことばによって清くされることがあります。ことばと共に主の霊が働いているからです。
ヨハネ153には、“わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。”(2017)と記され、
ヨハネ663には、・・・。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、・・。2017)とあります。

 心のきよめではありませんが、主イエス様のおことばできよめられた人がいます。
“1
イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
2
すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
3
イエスは手を伸ばして彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。(マタイ8章・2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主なる神様は、私たちの心をきよくすることがお出来になりますから御名をほめたたえます。
あなたは、私たちの心に、きよくなりたいという志を与えてくださり、私たちが清くされていくようにと導いてくださいますから感謝します。
あなたの慈しみと恵みとを感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月28日 (水)

人の死とその後

 詩篇499-20には次のように記されています。
“9
人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。
10
彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚かな者、浅はかな者も等しく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
11
彼らの心の中では、その家は永遠で、住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。
12
しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。
13
これが愚か者の道。彼らに従う者もその口のことばを喜ぶ。セラ
14
彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝には直ぐな者たちが彼らを支配する。彼らの形はなくなり、よみがその住む所となる。
15
しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる。セラ
16
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
17
人は死ぬとき何一つ持って行くことはできず、その栄誉もその人を追って下ることはない。
18
たとえ人が自分自身を生きている間に祝福できても、あなたには物事がうまく行っていると、人々があなたをほめたたえても。
19
そのたましいは代々の先祖のところに行く。そこでは永久に光を見ることはない。
20
人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。2017)とあります。

  この世においては、多くの場合、財産は非常に役に立ちます。
今どきはあまり使われないでしょうが、少し前までは、「地獄の沙汰も金次第」ということわざが使われていました。
「地獄の沙汰も金次第」について、ことわざ辞典には、地獄の閻魔(えんま)様の裁きも金で左右されるというくらいだから、この世では、金さえあればたいていのことは何とでもできる。/〔省略(筆者挿入)〕/〔 解説〕 古くは「地獄の沙汰も銭がする」といいましたが、江戸後期には現在の形で使われるようになっています。このことわざが昔からよく使われる背景には、戒名などの信者の扱いが寺への寄進額の多寡によって大きく変わる現実がありました。また、かつて「地獄」と呼ばれた牢獄や遊廓ばかりでなく、この世の中のさまざまな領域で金銭がどれほど大きな威力を発揮するか、骨身にしみて認識した上での表現といえるでしょう。
 ただし、その用法は、文脈によって大きく変わります。賄賂など、金銭の威力を全肯定し、私利私欲を追求してはばからない処世法につながる一方で、まったく逆に、社会の現実を鋭くえぐり出すシニカルな批判として使われることも少なくありません。と述べられています。

 現代人は、死んだら次の世には何も持って行けないという位のことは知っているでしょう。あるいは死んだら無になってしまうと思っているでしょう。
しかし多くの人は豊かになりたいと願って努力しています。
今から約3000年前に地上にいたソロモン王は栄華を極めた人でした(マタイ629)。
ソロモンは、コヘレトの言葉(伝道者の書)の中に次のような一文を記しています。
“18
私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。
跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。
19
その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。
しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。
20
私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。
21
なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。22 実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。23 その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。2章・2017)とあります。
そして相続が、しばしば争族になるのです。私が見てきたところでは、財産の多少には無関係に争族が発生するのです。

 この詩篇の表題には、指揮者のために。コラ人による。賛歌。と記されています。
この詩篇を記したコラ人は、15節に、“しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる。”と述べています。

 神ヤハウェ(主)を信じていた人も、旧約時代は、死んだら陰府に行きました。
預言者にして士師であったサムエルの場合を1サムエル28章から見ると次のように記されています。
“13
王〔サウル王(筆者挿入)〕は彼女〔霊媒女(筆者挿入)〕に言った。
「恐れることはない。何を見たのか。」
女はサウルに言った。
「神々しい方が地から上って来るのを見ました。」
14
サウルは彼女に尋ねた。
「どのような姿をしておられるか。」
彼女は言った。
「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」
サウルは、その人がサムエルであることが分かって、地にひれ伏し、拝した。2017)とあります。

 イエス様は次の様な話をしてくれました。この話も、イエス様の御復活以前の話です。イエス様の御復活以前は、特殊な例(エノクやエリヤなど)を除き、主を信じていた人でも陰府に行ったのです。但し、陰府と一口に言っても主を信じていた人の行く場所と主を信じていなかった人の行く場所は異なったのです{余談になりますが、信じていなかった人でもその悪の程度によっていく場所が異なるようです(エゼキエル3217-32)}。
 
ルカ16章には次のように記されています。
“19
ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
23
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
24
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」2017)とあります。

 主イエス・キリスト様が復活された後、それまでに主を信じていた人たちが死後を過ごした陰府の方は空になりました。皆天に引き上げられたのです(エペソ48.9)。
マタイ2750-53には次のような一文が記されています。
“50
その時、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取りました。
51
すると、神殿の至聖所を仕切っていた幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。大地は揺れ動き、岩はくずれました。
52
さらに墓が開いて、生前神に従っていた多くの人たちが生き返りました。
53
彼らはイエスが復活されたあと、墓を出てエルサレムに入り、多くの人の前に姿を現わしたのです。(リビングバイブル)とあります。

 主イエス様の御復活後に地上のいのちを終えた人は、体を地に残し、その人の本体は天に帰ることになりました(使徒7592ペテロ114)。
新約時代、キリストの空中再臨前に肉体を脱いだ聖徒は、陰府に行くことはないのです。直接主のもとに行くことができるのです(ピリピ121-24)。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「私の願いは、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」と述べたパウロのように、主のために残りの生涯を歩ませて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月27日 (火)

近くにおられる神、遠くにおられる神/内におられる神

 申命記47.8には次のように記されています。
“7
まことに、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。8 また、今日私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民が、いったいどこにあるだろうか。2017)とあります。

 遠くにおられる神
申命記2615には、あなたの聖なる住まいの天から見下ろして、2017)という表現があり、
イザヤ6315には、どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。2017)という表現があり、
イザヤ4022には、主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。(新共同訳)と記されています。

 距離的に考えると天の聖なる住まいにおられる神ヤハウェ(主)には、いくら大声で祈っても聞かれないのではないかというのが、常識的な考え方ではないでしょうか。
人間同士の会話でも少し遠くなると何を言っているのか分からないのですから。

 距離との関係ではなく、罪人の祈りを聞いてくださらない理由が次のように記されています。
見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て、あなたがたの罪が御顔を隠し、聞こえないようにしている。(イザヤ591,2・聖書協会共同訳)

 堕罪したアダムの子孫である人間は、罪をもって生まれて来るので(詩篇515、ローマ512717)、生まれながらに神ヤハウェ(主)とは交わりを持つことができないのです。そのような状態でも神の方から働きかけてくだされば、主の御声を聞くことができます。主はその様にして預言者をお送りになられました。

 近くにおられる神
神ヤハウェ(主)は、イスラエルを通してご自身を世界の民に知らせようとなさいました。
旧約時代から、神ヤハウェ(主)とイスラエルの関係は、今日の聖句に記されているように素晴らしい状態にありました。
 申命記47.8には次のように記されています。
“7
まことに、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。8 また、今日私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民が、いったいどこにあるだろうか。2017)とあります。

 天におられると共に、人と共におられる神、人の内におられる神
イエス様は、宣教の初めの頃、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1152017)と語られました。
岩波意訳はこの箇所を、言った、「〔定めの〕」時は満ちた、神の王国は近づいた。回心せよ、福音の中で信ぜよ」。と訳しています。{〔 〕内は訳者挿入です}
イエス様がこのように語られたときは、まだイエス様による贖いの成就の前でした。

 イエス様が十字架上ですべての人の罪をその身に負われ、罪の罰を罪人の代わりに受けてくださり(1ヨハネ22参照)、死んで葬られ、三日目によみがえられました。
このイエス様の十字架と復活がもととなり、新約時代が始まりました。
イエス・キリスト様を信じる者は、罪を赦され(エペソ28)、神様から裁きを受けることがなくなり(ヨハネ318)、更に、先ずは霊の誕生をさせていただけ(ヨハネ33.6)、神の子どもとされたのです(ヨハネ112,131ヨハネ32)。霊の体が与えられるのはキリストの空中再臨の時です(1コリント15521テサロニケ416,17)。
 話を元に戻しますが、それだけではなく新生された霊の内に主キリスト・イエス様が住んでくださったのです(コロサイ127)。ただお住まいになるというのではありません。1コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記されているように、これは霊における結婚です。
 <キリスト・イエスをもといとして>(聖歌201番、聖歌総合版160番)
という歌詞の1節には、キリスト・イエスをもといとして うちたてられし御(み)教会は 君が血をもて買い給いし 花嫁たちの集まりなりとあります。

 キリストお一人だけが、キリスト・イエス様を信じ、愛の内に生きる者の内におられるというのではありません。
イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。
そして、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)とも語られ、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(ヨハネ14112017)とも語られ、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ1415-172017)とも語られたのです。

 主は天におられますが、同時に、霊である三一の主は、私たちの内にも存在することが出来、また私たちもキリストの内に置かれたのです。
あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。1コリント1302017)と記されています。
相互内住、なんという恵みでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
三一の神とキリストを信じ神の子どもとされた者たちを愛する者には、物理的には証明できなくても、その人に霊的にそのような体験をさせていただけますから感謝します。
神を愛し、神によって生まれたものをも愛して、いつも三一の神様と共に歩み続けることができますよう祝福してください。
あなたの摂理の中で、新約の恵みの中に生かされておりますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月26日 (月)

主イエス様はユダヤ教指導者のいくつかの教えの誤りを明確にされました

 マタイ151-9には次のように記されています。
“1
そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
2
「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」
3
そこでイエスは彼らに答えられた。
「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
4
神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
7
偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」2017)とあります。

 2節の「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」と言ったパリサイ人たちや律法学者たちの言葉の箇所に関連して、Bible navi(抜粋) は次のように解説しています。
 ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還して以来、何世紀にもわたって何百もの宗教上の言い伝えが神の律法に付け加えられていった〔「ミシュナー」:口伝律法と呼ばれるもの(筆者挿入)〕。パリサイ人や律法学者は、それらの法すべてを等しく重要とみなした。多くの言い伝えは本質的には悪いものではない。宗教上の言い伝えは、礼拝と生活に豊かさと意義を与えることもできる。しかし、長い間実践されてきた言い伝えだから、聖なる地位に引き上げられるべきと考えるのは間違いである。神の原理は決して変わらず、神の律法は追加される必要はない。律法は正しく生活に適用される必要がある。言い伝えは、神のことばをよりよく理解することを助けるべきであり、律法と等しい身分を得てはならない。と述べています。

 衛生上、何かを食べる前には手を洗ったほうが良いですよ、ということが分かったのは近代になって細菌学が登場してからのことであったのではないかと思います。
 律法によると、祭司にだけ、汚れたものから身をきよめる為に、食前に水浴することが求められたのです{(レビ221-16)レビ記のこの箇所は衛生面に限定されているものではなく神との関係において「聖」であること、との関係です}。

 マタイ153-6の平行記事がマルコ78-13には次のように記されています。
“8
あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
9
またイエスは言われた。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています〔親に対する責任回避(筆者挿入)〕。13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。
そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」2017)とあります。

 パリサイ人や律法学者たちに対して、主イエス様は、「自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをたくさんないがしろにしている」と糾弾しました(マルコ78.13)。

 主イエス様が十字架にかかられる前には、更に、言い伝えの間違いを指摘しました。
マタイ2313-28には次のように記されています。
“13
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。
14
(底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。〔14節は新共同訳(筆者挿入)〕
15
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。
16
わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。
18
また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』
19
目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。
20
祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。
23
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
24
目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。
25
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26
目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
27
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。2017)とあります。

 新約時代になっても、神の教えではない免罪符や十字軍の遠征等、また地上の教会内、教団内においても、聖書の聖句とは異なる教えを保有するところもあるように聞きます。
また、個人においても、自分で自分を縛ってしまうような取り決めの下、動かされている人もいます。

クリスチャンでありながらも、中には、神の教えではないものを、神の教え以上の立場において生活しているという人もいるだろうと思います。
イエス様は、真理はあなたがたを自由にします、と言われました(ヨハネ832)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたとの交わりの中で、あなたの御言葉を教えられ、あなたに従っていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月25日 (日)

恵みとまことは王を保つ/キリストの恵みとまことはキリスト者を保つ

 箴言2028には次のように記されています。 
恵みとまことは王を保つ。恵みによってその王位は支えられる。2017)とあります。

 箴言2028を聖書協会共同訳は「慈しみとまことが王位を保ち、王座は慈しみが支える。」と訳しています。

 リビングバイブルは、正しく思いやりのある王が治める国は、何があっても揺らぎません。と訳しています。

 「恵み」(2017)、「慈しみ」(聖書協会共同訳)、「思いやり」(リビングバイブル)と訳された語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、親切、優しさ、思いやり、慈悲、寛容・・・等の意があります。

 「まこと」と訳された語の原語は「エメット」で、安定(性)という意が原義で、真理、忠実、確信、着実、信仰深さ、正しさ、永続、不変、・・等の意があります。


 王には、人を慈しむ心とまことが必要であることが述べられています。
地上の王(統治者)も、慈しみと正しさを兼ね備えて統治すると、その座に長くいられる、ということです。
 本物の恵みと真理は主なる神様からのものですから、主なる神様からそれを供給され続ければよいことが分かります。

 新約的に捉えると、慈しみ(恵み)と真理に満ちておられるお方は、主イエス様です。
いくつかの日本語訳聖書のヨハネ1:14には次のように記されています。
2017は、“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った〔直訳「幕屋を張った」(欄外注)〕。私たちはその栄光を見た。それは父の独(ひと)り子としての栄光であって、恵みと真理(しんり)とに満ちていた。”と訳し、
岩波訳は、“ことばは肉〔なる人〕となって、われわれの間に幕屋を張った。――われわれは彼の栄光を、父から〔遣わされた〕ひとり子としての栄光を観た――〔彼は〕恵みと真理に滴ちて〔いた〕。”{〔 〕内は訳者挿入}と訳しています。

 余談になりますが、「肉体」は、「幕屋」です。その中にたましいがあり、その奥に霊があります。幕屋は神の宮として造るようにヤハウェ(主)がモーセに命じたものです(出エジプト26章)。ソロモンの時代、幕屋は神殿になりました。そして、ヤハウェ(主)はその神殿とソロモンの祈りを受け入れられました(2歴代誌2-7章)。
新約時代、神の霊の宿る神殿(宮)は、新生したキリスト者となりました(1コリント3:16、6:19)。
ペテロもパウロも自分の肉の体を「幕屋」と表現しました。
ペテロは、「・・・、私は地上の幕屋にいるかぎり、・・・。私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」(2ペテロ1:13,14・2017)と語り、
パウロは、「1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。2 私たちはこの幕屋〔地上における魂と霊の入れ物である肉の体(筆者挿入)〕にあってうめき、天から与えられる住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を着たいと切望しています。3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。4 確かにこの幕屋のうちにいる間〔霊とたましいが肉の体の内にいる間(筆者挿入)〕、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。」(2コリント5章・2017)と語りました。

 話を元に戻します。
新生したキリスト者に対して、ペテロは、「・・・、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(1ペテロ2:9・2017)と語りました。

 キリスト者は「王である祭司」なのです。
キリスト者は、キリストの恵みとまことによって、その王位をふさわしい状態で保たれることができるのです。
ヘブライ語で、「王」は「メレク」といい、それと同義語のギリシア語は「バシリュース」と新約聖書に出て来ます。聖書辞典によると、“〈ギ〉バシリュースは新約聖書中100回以上記されている。〈ヘ〉メレクは「所有者」(特に体力の)、または「カウンセラー」(知的能力の保持者として)を意味するものと思われる。〈ギ〉バシリュースは「支配者」「リーダー」を意味した。”(抜粋)と記されています。
キリストは「王の王」です(黙示録19:16)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、キリスト・イエス様の恵みとまことの故に、キリスト者としてふさわしく歩むことができることを覚えます。
御子は、天において天使たちに常に賛美されている存在でしたが、私たちを救うために、また私たちがあなたに在ってふさわしく歩むことができるために、この世界に来られ幕屋を張られたことを覚えて感謝します。
今日も主キリスト・イエス様の御支配の下(もと)、歩ませて頂けます恵みを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月24日 (土)

魂の贖いの代価は高い/イエス・キリストによる贖い。主の御降誕に感謝

 詩篇496-8には次のように記されています。
“6
彼らは自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。
7
兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。
8
たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない。2017)とあります。
(表題を1節としている日本語訳聖書は、7-9節になっています。)

 またイエス様は次のように語られました。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。」(マルコ836,372017)と。

 ソロモンは、神様から知恵と知識と富と財宝と誉れを与えられた人でした。
2
歴代誌17-12には次のように記されています。
“7
その夜、神はソロモンに現れて仰せられた。
「あなたに何を与えようか。願え。」
8
ソロモンは神に言った。
「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。そして、父に代わって私を王とされました。9 神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、今、私の父ダビデになさったあなたの約束を堅く守ってください。あなたは、地のちりのように数の多い民の上に、私を王とされたからです。10 今、知恵と知識を私に授けてください。そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします〔「民を統治します」の意(筆者挿入)〕。さもなければ、だれに、この大いなるあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
11
神はソロモンに仰せられた。
「そのようなことがあなたの心にあり、富も、財も、名誉も、あなたを憎む者たちのいのちさえ願わず、また長寿も願わず、むしろ、わたしがあなたをその王として立てたわたしの民をさばくための知恵と知識を願ったので、12 その知恵と知識があなたに授けられる。またわたしは、あなたの前の王にも後の王にもないほどの富と財宝と誉れをあなたに与える。」2017)とあります。

 ソロモンに与えられた知恵と知識は、ありとあらゆるすべてのものに対するものとして与えられたものではありませんでした。
11,12
節によると、・・・わたしの民をさばくための知恵と知識を願ったので、12 その〔主の民を統治するための(筆者挿入)〕知恵と知識があなたに授けられる。・・・。と記されています。
 また、1列王記429-34には次のように記されています。
“29
神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。
30
ソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵にまさっていた。
31
彼は、どの人よりも、すなわち、エズラフ人エタンや、マホルの息子たちのヘマン、カルコル、ダルダよりも知恵があった。そのため、彼の名声は周辺のすべての国々に広まった。
32
ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五首もあった。
33
彼は、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語った。
34
彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た。2017)とあります。
(新共同訳、聖書協会共同訳等は、列王記上59-14になります。)

 列王記の文からは、ソロモンに与えられた知恵や知識は、政治的な統治の他にも、地上の様々な事柄についての知識を与えられていたことがわかります。
しかし、神の一人子である御子によって、罪の贖いがなされるということは奥義でした。

 ソロモンには隠されていましたが、義人ヨブには、贖いの概念が明らかにされていました。
ヨブ1925-27aには次のように記されています。
“25
私〔ヨブ(筆者挿入)〕は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。
26
私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。27 この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を私は自分自身で見る。2017)とあります。

 旧約時代にも、死を体験することなく、天に引き上げられた人がいます。
エノクとエリヤです(創世記525、ヘブル1152列王記211,12)。

 ヨブに与えられた言葉やエノクとエリヤの事例もありましたが、イエス・キリストの十字架と復活による救いと新生は、旧約時代には奥義であったのです(1コリント118-2101ペテロ138,9)。

 神の一人子の御子が、肉の体を纏って地上に表れてくださった第一の事柄は、罪びとの罪を贖い、人々を新生させるためであったのです。
それ故、私たちはキリストの御降誕に感謝し、主の御名を賛美します。

 ヘブル105-14には次のように記されています。
“5
ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなた〔御父(筆者挿入)〕は、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたし〔御子(筆者挿入)〕に、からだを備えてくださいました。
6
全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物〔キリストの予表(筆者挿入)〕をあなたは、お喜びにはなりませんでした。
7
そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」
8
以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。
第二のもの〔キリストの血による贖い等(筆者挿入)〕を立てるために、初めのもの〔祭儀律法(筆者挿入)〕を廃止されるのです。
10
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
11
さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
14
なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって〔御子イエス・キリストがご自身を献げられたことによって(筆者挿入)〕永遠に完成されたからです。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛を感謝します。
イエス様の恵みを感謝します。
私たちは、イエス様の地による贖いを受けました。
そのために御降誕くださった御子イエス様、ありがとうございます。
イエス様が主であると悟らせてくださいました聖霊様、感謝します。
三一の主なる神様の御名がとこしえに賛美されますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私事でありますが、今日、後期高齢者の仲間入りをしました。
61歳時に心筋梗塞になり、それに伴い心不全に陥り、お小水がほとんど出なくなって、「助かりません」と担当医に言われてから、主の御恵みによって今も使命が与えられておりますことを主に感謝します。
このブログを読んでくださっておられる兄姉の中には、その当時も、その後も熱心にお祈りくださっておられる方々もおられますので、この場を借りて心から感謝申し上げます。
ありがとうございます。
敬愛する兄姉皆様の上に、御父からのご祝福が益々豊かに注がれますよう私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月23日 (金)

偶像礼拝に陥ることなく主のご命令に従うことの重要性/キリスト・イエス様を信じて歩む人の幸い

 申命記41-6には次のように記されています。
“1
今、イスラエルよ、私が教える掟と定めを聞き、それらを行いなさい。それはあなたがたが生き、あなたがたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに与えようとしておられる地に入り、それを所有するためである。
2
私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守らなければならない。
3
あなたがたは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がバアル・ペオルのことでなさったことを自分の目で見た。バアル・ペオルに従った者すべてを、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのうちから根絶やしにされたのである。
4
しかし、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にすがってきたあなたがたはみな、今日生きている。
5
見なさい。私は、私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私に命じられたとおりに掟と定めをあなたがたに教えた。
あなたがたが入って行き、所有しようとしているその地の真ん中で、そのとおりに行うためである。
6
これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、「この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ」と言うであろう。2017)とあります。

 1節には、“今、イスラエルよ、私が教える掟と定めを聞き、それらを行いなさい。それはあなたがたが生き、あなたがたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに与えようとしておられる地に入り、それを所有するためである。”とあります。

 イスラエルの民が、ヤハウェ(主)が与えてくださると言われたカナンの地を所有するために必要なことは、律法を守ることでした。
その中でも最重要なことは、神ヤハウェ(主)のみに仕え、偶像礼拝をしないことでした。

 後になって、北イスラエル王国は、偶像礼拝の罪によりアッシリアに敗北し、奴隷として連れて行かれました。ユダ族を中心とする南イスラエル王国は、偶像礼拝の罪により、バビロン(ヘブライ語ではバベル)に敗北し、奴隷として連れて行かれました。

 出エジプトした民も、偶像礼拝の罪を犯した者たちに対して、ヤハウェ(主)から裁きが下りました。
申命記43に、あなたがたは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がバアル・ペオルのことでなさったことを自分の目で見た。バアル・ペオルに従った者すべてを、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのうちから根絶やしにされたのである。と記されているとおりです。
 この事件については、民数記251-9に次のように記されています。
“1
イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。〔肉体の姦淫の罪から霊的な姦淫の罪へと進んだのです(筆者挿入)〕
3
こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。
「この民のかしらたちをみな捕らえて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」
5
そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。
「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」
6
ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。
7
祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、8 そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。
するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。
9
この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。2017)とあります。

 主なる神を信じない人、すなわち主の御言葉を信じていない人は、偶像礼拝や不倫や進化論に何か問題があるのか?と言う人も多いのではないでしょうか。
主なる神様を知った人は、万物を造られた御方は主なる神様であられ(創世記1章)、またそれを保っておられるのも主なる神様であられ(コロサイ117、ヘブル13)、人ではなく主なる神様に主権がある(マタイ2818)ということを知り、信じていますが、主を信じない人は、それらのことを受け入れませんし、それを伝えても信じようとはしません。
 心から救いを求める人、心から真理(ヨハネ146)を求める人には、「求めよ、さらば与えられん。」(マタイ77)と言われた主イエス様の御言葉にあるように、求める人に御聖霊が働いて、イエス・キリスト様が「主」であるのだ、と悟らせてくださるのです(1コリント123)。
イエス・キリスト様が「主」であるのだ、と悟らせていただけた人は、主の御言葉を信じます。

 新約時代は、神が人となられたイエス・キリスト様を見た人たちがいた時代or神が人となられたイエス・キリスト様を知ることの出来る時代です。
それ故、主であるイエス・キリスト様を信じない人、イエス・キリスト様を主としない人は、偶像礼拝の罪を犯しているのです。
イエス様は最後の晩餐のときに言われました。
「その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」(ヨハネ1682017)と語られ、
「・・罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と語られたのです。

 旧約時代、ヤハウェ(主)がイスラエルの民に約束したのは、カナンの地でした。
新約時代、主イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様を信じた者を天の神の王国へ入れてくださったのです。今まだ地上にいる人については、天の神の王国に入れる約束を与えてくださっておられます(ヨハネ141-3)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主イエス様の御もとに行く時迄、常に主を信じて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月22日 (木)

キリスト者は主への信頼を欠くと、主にある者としてふさわしく歩むことが出来ない

 マタイ1422-36には次のように記されています。
“22
それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
24
舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
26
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
27
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
28
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
29
イエスは「来なさい」と言われた。
そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
30
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
32
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
33
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
34
それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。
35
その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。
そして、さわった人たちはみな癒やされた。2017)とあります。

 22‐27節は、20221218 ()にアップしてありますので、そちらをご覧ください。
 ガリラヤ湖に強風が吹きつけ、大きな波が立っている中を、イエス様が、水の上を歩いて弟子たちが乗っている船の方に来られるのを見た弟子たちは、幽霊がやって来たと思い、恐怖を覚え、「あれは幽霊だ」と叫んだのです(24-26節)。
 その声を聞いた主イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのです(27)。
 イエス様のその御声を聞いたペテロは、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と願ったのです(28)。

 ペテロの願いを主イエス様は聞かれました。
イエス様は、「「来なさい」と言われたのです(29)。
イエス様が語られたことは、いつも成就することを見てきたペテロでした。
イエス様が御言葉を下されば、それは成る、ということを疑わなかったペテロでした。
ペテロは船を出て、波の上をイエス様の方に歩いて行きました。
しかしペテロは、強風を体感して恐怖を覚え、イエス様の御言葉に信頼しそこなったのです。
 イエス様の御言葉に対する信仰ゆえに成立していた超常現象は、その時に消失したのです。
ペテロは、水中に沈み始めました。
ペテロはとっさに、主イエス様に、「主よ、助けてください。」と叫んだのです(30)。

 主イエス様は、ペテロに、不信仰者よ、沈んで水でも飲んで来なさい、とは言わず、すぐに手を伸ばして助けてくださったのです。
主イエス様は、ペテロを助けると共に、ペテロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と語りました(31)。
「信仰の薄い」と訳されているギリシア語原語は「オリゴピストス」で、「信仰の貧弱な」の意です。

 イエス様とペテロが船に乗り込むと、何と凪(なぎ)になったのです(32)。
この強風(30)と波は、弟子の訓練のためのイエス様の御業であったのかも知れないと、私は想像してしまします。

 主なるキリスト・イエス様は、ご復活後、御父の右の座に着座され(マルコ1619)、その後、天地における一切の権威を持っておられます(マタイ2818)。
主の御復活前であっても、主イエス様が、御父に願うことは、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という祈りを除いて、すべて聞かれたようです。しかし、この主の祈りも実際は、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」というように、下線部分も祈りの一部分を形成していますから、主イエス様が御父に願った祈りはすべて聞かれたのでしょう。

 この時の、ガリラヤ湖の強風も、弟子の訓練のために、主が御父に願ったことであったのではないかと思います。

 今や、主なるキリスト・イエス様は、天地の主権者であられ、直接、私たちに、様々な試練を与えてくださいます。
それは私たちの信仰の成長のためであり、また、主の恵みをさらに知るためです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつもあなたに思いを向け、あなたに在って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月21日 (水)

日々主なる神の御言葉を聞く幸い

 箴言1925には次のように記されています。
2017
は、
嘲る者を打て。
そうすれば、浅はかな者は賢くなる。
悟りのある者を叱責せよ。そうすれば、彼は知識をわきまえ知ることになる。”と訳し、
フランシスコ会訳は、
あざける者を打て。
そうすれば、無学な者は思慮深くなる。
知性のある者をいさめよ。そうすれば、彼は知識を弁える。と訳し、
リビングバイブルは、
人をさげすむ者を罰すれば見せしめになり、知恵のある人をしかると、ますます賢くなります。と意訳しています。

 注解付新改訳聖書の注は、この箇所の「嘲(あざける)る者」について、どんなにしかっても効果のない者と注し、「わきまえのない者」については、善にも悪にも染まり易い者。このような者は嘲る者が打たれているのを見て、教えを受ける。と注しています。そのようにこの箇所を捉えると、箴言1925の意味は、リビングバイブルが述べているような内容なのだろうと思います。

 Bible naviは解説・適用欄に、批判から学ぶ人と、叱責を拒絶する人とでは大きな違いがある。私たちが批判にどのように対応するかによって、知恵において成長するかどうかが決まる。今度誰かがあなたを批判するときは、言われているすべてのことを注意深く聞こう。何かを学べるかもしれない。と述べています。

 箴言1927には次のように記されています。
2017
は、わが子よ、訓戒を聞くのをやめてみよ。あなたは知識のことばから迷い出ることになる。とあります。
新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、同じような解釈の翻訳をしています。

 口語訳、文語訳、リビングバイブルは、上記とは少し異なった翻訳をしています。
文語訳は、わが子よ哲言(さときことば)を離れしむる敎(おしえ)を聽くことを息(や)めよと訳し、
口語訳は、わが子よ、知識の言葉をはなれて人を迷わせる教訓を聞くことをやめよ。と訳し、
リビングバイブルは、間違っていると思う教えを聞くのはやめなさい。と訳しています。

 この箇所は、2017のようにも、口語訳のようにも訳せる箇所のようであると思えます。

 2017訳のように取れば、聖書を読まなくなると、神の知識の言葉から迷い出るようになるかもしれない、と捉えることができますし、
口語訳のように取れば、神のことばとは異なる教訓を聞くことを止めなさい、と捉えることができると思います。

 いずれにしても、真理である神の御言葉に日々接することこそ大切であることを覚えます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
詩篇1830 には、神その道は完全。主のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。2017)とあります。
日々あなたの御言葉を食し、あなたに在って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月20日 (火)

死を越えて私たちを導かれる主

 詩篇4815には次のように記されています。
“この方こそ神、代々とこしえに我らの神。神は、死を越えて〔別訳「永遠に」(欄外注)〕、私たちを導かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。
(新改訳、口語訳、リビングバイブルは14節になります。)

 この箇所を、
文語訳は、そはこの神は、いや遠長(とおなが)にわれらの神にましましてわれらを死(しぬ)るまでみちびきたまはんと訳し、
リビングバイブルは、この偉大なお方は、いつまでも私たちの神でいてくださり、死ぬ時までずっと導いてくださいます。と訳しています。

 後半部分を、「神は、死を越えて私たちを導かれる。」と訳しているのは、最初に記した聖書協会共同訳の他に、新改訳2017、また、その意で訳したものに新共同訳があり、
「神は私たちをとこしえに導かれる。」と訳しているのは、新改訳初版~第三版で、
口語訳は、「とこしえにわれらを導かれるであろう。」と未完了形で訳してあります。

 未来形は、普通、起こるかも知れないし、起こらないかも知れない、というような意味合いで、「~であろう」と訳しますが、神の御言葉は、「必ず成るので」、ヘブライ語聖書の本文の未来のことは、未完了であると捉えるのです。そのような意味で、口語訳も「神は私たちをとこしえに導かれる。」と訳している部類に入れることができると思います。

 私たちの神は、永遠の神です。
 創世記2133には、アブラハムは、・・・永遠の神、ヤハウェ(主)の名によって祈った(名を呼んだ)。と記されています。
「永遠の神、ヤハウェ」の箇所のヘブライ語聖書は、ヤハウェ(主) エル(神) オーラーム(隠れたor永遠)となっています。
 イザヤ4028には、・・・ヤハウェ(主)は永遠の神・・・と記されています。
 ローマ信徒への手紙の1625-27には次の様なパウロの賛美があります。
“25
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(新共同訳)と記されています。

 私たちの神は、愛の神です。
エフェソ(エペソ)13-5には、“3わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、たたえられますように。神は、キリストに結ばれたわたしたちを天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。
4
まさに神は、わたしたちがみ前で聖なるもの、非の打ち所のないものとなるように、世界創設以前から、キリストに結ばせることによってわたしたちを選び出してくださいました。それはわたしたちへの愛によるものです
5
神はみ旨の善しとするところに従って、わたしたちがイエス・キリストを通して、ご自分の子となるよう、あらかじめ定めておられたのです。(フランシスコ会訳)と記されています。

 詩篇4814or15)について、
文語訳は、そはこの神はいや遠長にわれらの神にましましてわれらを死(しぬ)るまでみちびきたまはん”と訳し、
リビングバイブルは、この偉大なお方は、いつまでも私たちの神でいてくださり、死ぬ時までずっと導いてくださいます。と訳していますが、「死ぬとき」まででは、余りにも残念です。
この箇所の「死を越えて」(聖書協会共同訳、2017)と訳されている中の「越えて」と訳された語のヘブライ語原語は「アル」でaboveの意があります(それ以外にも多くの意で用いられますが)。

 私たちの新生した霊は、既に永遠です。
イエス様は、「わたしは・・。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ1125)と語らたのです。
肉体は罪の故に死にます。あるいは、キリストの空中再臨の時まで地上に生きていれば、肉体は霊の体に変えられるのです。肉の体は地上のものであり、天上の体は霊の体です。

 霊の体を与えられ、天に帰った後も、主は、私たちを愛し続け、導き続けてくださるのです。
キリストの空中再臨前に天に帰った霊は、まだ霊の体は与えられていなくて、霊の状態でいます。天上のキリスト者の霊も霊の体を与えられるのはキリストの空中再臨の時であるからです。

 「イェスは我が命」という聖歌(聖歌608番、聖歌総合版653番)の4節には次の様な歌詞が記されています。
イェスはたれよりもまさる友ぞ 世にいくる限り我は頼らん 世を去りてのちもとこしえまでも 変わらぬ愛もて頼らんとあります。

 主は、この世においても、天においても、キリストの千年王国においても、永遠の新天新地においても愛をもって導いて下さる神です。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
実際には様々なところを通りますが、それをも含め、主は愛をもってとこしえに導き続けてくださる神ですから感謝します。
聖なる御名が崇められますように。
感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月19日 (月)

モーセの願いと主の対応

 申命記323-29には次のように記されています。
“23
私はそのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に懇願して言った。
24
「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、このしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことができる神が、天あるいは地にいるでしょうか。25 どうか私が渡って行って、ヨルダン川の向こう側にある良い地、あの良い山地、またレバノンを見られるようにしてください。」
26
しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない。
27
ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることはないからだ。
28
ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの地を彼らに受け継がせるからだ。」
29
こうして私たちは、ベテ・ペオルの前にある谷にとどまった。2017)とあります。

 23節に、私はそのとき、ヤハウェ(主)に懇願して言った。とありますが、この「その時」とは、民数記20章のメリバの水の事件です。
 メリバの水の事件に入る前に、
民数記201には、“イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。”(2017)と記されています。
ここの第一の月は、出エジプトして40年目の第一の月でしょう。
モーセの姉のミリヤムは死んだのです。
そしてモーセの兄のアロンも出エジプトして40年目の早い時期に死んだのです。
民数記2022-26には次のように記されています。
“22
イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。
23
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。
24
「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」2017)とあります。
ミリヤムとアロンの死亡年齢は120歳を超えていました。
(民数記1426-35参照:出エジプトした時に20歳以上であった人たちは、神への罪の故に、ヨシュアとカレブを残して皆荒野で死ぬのです。)

 モーセは、カナンの地に入りたかったのです。
しかしヤハウェ(主)はそれを許しませんでした。
それは、モーセが、ヤハウェ(主)の御命令を守らず、ヤハウェ(主)を「聖」としなかったからです。
 民数記201-12には次のように記されています。
“1
イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
2
そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
民はモーセと争って言った。
「ああ、われわれの兄弟たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
4
なぜ、あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
5
なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
 6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が彼らに現れた。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
8
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
9
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前から杖を取った。
10
モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
11
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
12
しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセとアロンに言われた。
あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」2017)とあります。

 主に信頼せず、主を聖としない罪が如何に重いものであるのかを思い知らされます。

 詩篇29篇には、
力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。1,2節・2017)と記されています。

 イスラエルの民の言動がどうであれ、モーセは、それに左右されてはならなかったのですが、感情的になり、かつ責任転嫁をしています。
モーセは、「しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。」(申命記3262017)と述べています。

 さて、モーセの処遇は、罪を罰せられて終わりではありませんでした。
ヤハウェ(主)は義なるお方であると共に愛なるお方です。
ヤハウェ(主)は、モーセにカナンの地を見させてくださったのです。
ヤハウェ(主)はモーセに、「ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。」(申命記3272017)と仰ってくださったのです。

 その後、ヤハウェ(主)は、モーセの後継者ヨシュアを力づけ、励ますように、とモーセに言われたのでした(申命記3282017)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
天使たちは、神様に、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美をささげています。
私たちも聖なるあなたにいつも栄光を帰し、あなたを賛美しつつ歩み続ける者となさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月18日 (日)

強風に波立湖面を歩かれた主イエス様

 マタイ1422-27には次のように記されています。
“22
それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
24
舟はすでに陸から何スタディオン〔1スタディオンは約185m(筆者挿入)〕も離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
26
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
27
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。2017)とあります。

 23節には、群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。とあります。
この出来事の前には、5つのパンと2匹の魚を元に、男子5000人と女性たちと子どもたちを満腹させた記事が記されていました。その時の食事の時間は、夕方でした(マタイ1415)。
時間を留めない限り、23節の「夕方になっても」という記述はおかしいのではないかと思い、ギリシア語原語を調べたところ、「オプシオス」とあり、原義は「late、遅い」の意で、夕方、夜遅くまでの意もあります。KJV訳もNIV訳も“evening”( 日没から寝るまでの頃)と訳しています。
それ故、前の話の続きから考えると、夜遅くまで、イエス様は祈っていたのだと思います。25節には夜明けが近づいたころとありますし。

 さて、22.23節の内容からすると、主イエス様は、この時、群衆の熱気から身を退けたいという思いと、御父との交わりを豊かに持ちたいと願うような思いの中にあったのではないかと思います。
パンの奇跡の文章の最後の、マタイ1421には、「食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。」(2017)という文があり、そして、今日の箇所に続いているのですが、ヨハネの福音書では、マタイ1421に続く文が次のように記されています。
“14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。(ヨハネ6章・2017)とあります。

 イエス様は、朝早く一人で祈るのを日課としていたように思われます。
マルコ135には、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。2017)と記されています。
しかし、パンの奇跡の後には、夕方から夜遅くまで一人になれるところで、一人で祈っていたのです。

 主との豊かな交わりを持つには一人に限ります。
イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ662017)とも語っておられます。
 地域教会等でもたれる祈祷会を否定しているのではありません。
イエス様は、「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において〔in my nameNIV)〕集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ1819,202017)とも語られました。

 24-27節の箇所は、ガリラヤ湖において、向かい風が強く(30節も考慮しています)、漁師たちが乗っていても、なかなか所定の岸迄船を到着させることができないような状況であった中、イエス様は湖上を船の方に歩いて行ったのです。

 人によってはその時の状況を読み過ごして、イエスは浅瀬を歩いたのだとか、足が沈む前に次の足を出したのだとか、奇跡を信じない人は、私たちキリスト者が考えもつかないような意見を言われます。
 イエス様は強風が吹いて波が高くなっている中を歩いておられたのです。
ガリラヤ湖を見た人は、浅瀬を歩いて、漕ぎあぐねている船の方に行ったなどとは、思いも及ばないでしょう。

 弟子たちも大変でした。
evening
に岸を出発し、夜明けが近づいたころ(25)、まだ目的の岸に到着することなく悪戦苦闘していたのです。即ち、ほぼ一晩中舟を漕(こ)いでいたのでしょう。

 中国の孔子(こうし)、インドの釈迦(しゃか)、ユダヤのイエス・キリスト、ギリシアのソクラテスを四聖(4人の偉大な思想家)と学校では教えることでしょう。
イエス・キリスト様を除いた他の3人は、この様な奇跡を行うことができたでしょうか。
数え切れないほどの奇跡を行った方、それがイエス・キリスト様です(ヨハネ2125)。

 主イエス・キリスト様は、神の一人子の御子なのです(マタイ317、ヨハネ114.183161ヨハネ49)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様をあなたのひとり子と信じさせて頂けていますことを感謝します。
如何なる境遇の中でも、主を愛し、主に信頼して歩み続けて行くことができますよう祝福してください。
イエス様のように、イエス様の御教えのように、主との交わりを誰かに邪魔されることなく日々持つことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月17日 (土)

「主を畏れるなら災いに会わない」。これは真実か?

 箴言1923を、
新改訳2017は、主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。と訳し、
新共同訳は、主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき、災難に襲われることはない。と訳し、
聖書協会共同訳は、主を畏れれば命に向かう。満ち足りて眠りに就き、災いに襲われることはない。と訳し、
口語訳は、主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。と訳し、
フランシスコ会訳は、主を畏れることは、命に至ること。満ち足りて憩い、災いに遭うことはない。と訳しています。

 ヘブライ語聖書のこの箇所を調べると、各単語の持っている意味の捉え方で、それぞれの日本語訳聖書のように訳せるように思います。

 私は、「主を畏れれば命に至り、満ち足りて住み、災いに遭わない。」と訳したいと思いました。

 今日のテーマは、主を畏れ敬って生活するという敬虔な歩みをしている人が、災いに遭うのはどうしてなのだろうか、ということです。

 イエス様は、十字架につかれる前に、「なんぢら世にありては患難あり」(ヨハネ1633・文語訳)と語られたのです。

 箴言1923の聖句の中の「主」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤハウェ」です。ヤハウェという名は神の呼称の一つです。
当たり前のことですが、御子も神です。ローマ95に、“キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。”(2017)と記されているように。
イエス様は、御父の言葉を語りました。「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14242017)と記されているとおりです。それ故、イエス様は、「神のことば」(黙示録1913)とも言われたのでしょう。

 主である神様は、箴言1923では、「主を畏れれば・・・・災いに遭わない」と語られ、
ヨハネ1633では、「なんぢら世にありては患難あり」と言われたのです。

 一見矛盾しているように感じますね。
箴言1923の「主を畏れれば命に至り、満ち足りて住み、災いに遭わない。」というのは、すべてが主の支配下にある場合に限定すれば成り立つ御言葉です。
人や霊的生物に対する主の完全支配は、大天使ヘイレル(ルシファー)の堕罪以前とキリストの千年王国と新天新地以後の永遠の時代です。

 しかし、キリストの千年王国に入る前までのこの世は、悪魔(サタン・悪い者)が支配しています。
キリスト者の肉体は、この世のものです。
キリスト者の体が天に属するものである霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。
 1コリント15章には次のように記されています。
38 神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39
 どの肉も同じというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40
 また、天上の体もあれば、地上の体もあります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。/
44
 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
45
 聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となりました。
46
 つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。
47
 最初の人は地に属し、土からできた者ですが、第二の人は天に属する方です。
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方〔復活のキリスト(筆者挿入)〕に等しいのです。
49
 私たちは、土からできた人のかたちを持っていたように、天上の方のかたちをも持つようになります。
50
 きょうだいたち、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。また、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐこともありません。
51
 ここで、あなたがたに秘義〔奥義(2017)〕を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。
52
 終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます〔1テサロニケ416,17参照(筆者挿入)〕。
53
 この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
54
 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に呑み込まれた。・・」”(聖書協会共同訳)

 主イエス様が語られた、「なんぢら世にありては患難あり」(ヨハネ1633)と語られたのは肉の体についてのことであり、霊のことではありません。
キリスト者が、主の内にあり続け、主が私たちの霊とたましいとをしっかり支配しているときには、霊とたましいは、箴言1923にあるように、「主を畏れれば、災いに遭わない。」のです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも喜びをもって主の御支配を受け、平安の内に歩み続ける者であらせてください。
あなたは、勝利を与えてくださるお方ですから、御名を崇めて感謝と賛美を献げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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<心にあるこの安きを>聖歌560番 聖歌総合版584
1.心にあるこの安きを奪うもの地になし 試みにて苦しむとも 我が安き動かじ
(折り返し)*
我がものなる主を宿す その喜び言い難し 主のたまえり 「我などて なれを捨てて去るべき」
2.この安きを受けし時に 雨雲ははれたり 悩みあらず涙もなく 歌声のあるのみ

3.この安きを持てる土の器なる我が身も やがてイェスに会わば変わらん 栄えある姿と

(証し)
私の救いは、2節の「この安きを受けし時に雨雲ははれたり」であったのです。
私は約50年前に、この世は核戦争でどうにかなってしまうのではないだろうか、という不安をいだきました。進化論を信じていた私は、伝道者の書311の御言葉を知ることもなく、死んだら無になってしまうことに恐怖を覚えていたのでした。「イエスを信じれば良いのだよ」という言葉を聞き、イエス様を信じて平安を頂いたのでした。
本当に主に大感謝です。

2022年12月16日 (金)

主をほめたたえよう

 詩篇481には次のように記されています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、表題を1節としているので、この箇所は2節になります)
主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。2017)とあります。

 前にも書きましたが、詩篇4648篇は一組になっていると想像できます。
アッシリアの王センナケリブの軍隊の襲来に対し、ユダにはアッシリアと戦う力がありませんでした。
そこでヒゼキヤとイザヤは主に祈りをささげました。
その祈りに応えて、主の使いが、一晩でアッシリア軍185,000人を打ち殺してくださったのです。
詩篇48篇は神様への賛美と、シオンの山、エルサレムは神の聖なる都である故、神様が守られた、また、ユダヤの民をも守って下さった、という神様への賛美と感謝の表れの歌であると思えます。

アッシリアの攻撃とヒゼキヤ、イザヤの行動と祈り、神さまの応答については、2列王記1719章、2歴代誌2832章、イザヤ36.37章に記されています。

これらの箇所を読めば、詩篇4648篇の内容をよりよく理解できるのではないかと思います。

 ヒゼキヤ王の時代、アッシリアに包囲されたエルサレムの中にいたユダヤの民は、主の御介入がなければ、殺されたか捕虜とされたことであったでしょう。

 私たちアダムの子孫である人間も、アダムの堕罪により、罪(罪を犯す性質)をもって生まれてきました。それ故、だれかに教えてもらわなくても罪を犯すことができるのです。

 罪を犯した人の最終結末は、最後の審判における判決、そしてその判決内容は、火の池に投げ込まれるというものなのです。死んだ後に地獄に放り込まれたとしても魂には意識があります。悪しき霊たちはそこで生活しています。しかし火の池に投げ込まれると完全に滅びるのでしょう。

 黙示録2012-15をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“12
私はすべての死者が、大きい者も小さい者も、神の前に立つのを見ました。・・・死者は、・・・それぞれの行いに応じて裁かれました。13 海も、死と地獄も、その中の死者を吐き出しました。そして各自が、その行いに応じてさばかれました。14 それから死と地獄は、火の池に投げ込まれました。これが第二の死です。15 いのちの書に名前の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれたのです。と記されています。

 上記の文章は使徒ヨハネが記したとされていますが、同じようにヨハネによって記されたヨハネの福音書では、第二の死のことを「滅び」と表現しています。
使徒ヨハネは、ヨハネ316では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(2017)と表現し、
ヨハネ1028では、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(2017)と表現しています。

 「滅びの火」と主イエス様の御功績を強く意識した聖徒がいました。
その人は次の様な詩を書きました。
我がため 十字架の悩みと恥を 受けさせたまいし 我が主の愛よ。血潮の功(いさお)に 滅びの火より 逃れし我が身は歌わざらめや{(詩:笹尾鉄三郎)聖歌280番、聖歌総合版261番}

 キリスト者は、主から罪を示され、罪を悔い改め、主の血潮の故に、永遠のいのちを与えられたものです。

 マリアは、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(ルカ146,472017)と主を賛美し、
ダビデは、「わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇1031.22017)と記しています。

 私たちキリスト者は、どの様な境遇に置かれているときでも、滅びの火より救い出され、永遠のいのちを与えられていることを賛美することができます。

 様々なことで押しつぶされそうな時でも、これまでに主が与えてくださった恵みを覚える時、主を賛美することができます。
 聖歌総合版642番、聖歌604番に、「のぞみも消えゆくまでに」という聖化があります。その歌詞は次のように記されています。
1.望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み なが心は安きを得ん
(折り返し)*
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ主の恵み 
2.主の給いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん

3.世の楽しみ、富、知識 なが心を誘う時 数えてみよ主の恵み 天つ国の幸によわん


 苦難の中にあっても、苦難に心を奪われてしまうことなく、主に心を留めれば、主をいつでも賛美することが出来、また、主をほめたたえることは、その人の力になるのです。ネヘミヤ8:10には、「・・・主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新共同訳)とあります。
主の臨在が豊かになる元となるからです。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル1212017)という聖句に従って生きる生き方の一つに賛美があります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いかなる状況の中にあってもあなたに目を留め、あなたを賛美しながら歩む生涯を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月15日 (木)

バシャンの王オグの地の征服

 申命記31-11には次のように記されています。
“1
私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての兵は、エデレイで私たちを迎え撃つために出て来た。
2
そのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」
3
こうして私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、バシャンの王オグとそのすべての兵を私たちの手に渡されたので、私たちはこれを討ち、一人の生存者も残さなかった。
4
そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であり、バシャンのオグの王国であった。
5
これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町であった。このほか、城壁のない村も非常に多かった。
6
私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町、男、女および子どもを聖絶した。
7
ただし、すべての家畜と、町々での略奪物は私たちのものとした。
8
このようにして、そのとき私たちは、二人のアモリ人の王の手からヨルダンの川向こう〔ヨルダン川の東側(筆者挿入)〕を、アルノン川〔ヘシュボンの王シホンから奪った南限(筆者挿入)〕からヘルモン山〔バシャンの王オグから奪った北限(筆者挿入)〕まで取った。
9
──シドン人はヘルモンをシルヨンと呼び、アモリ人はこれをセニルと呼んでいる──
10
すなわち、高原のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土、サルカおよびエデレイに及ぶ、バシャンのオグの王国の町々である。
11
──バシャンの王オグはレファイムの唯一の生き残りであった。見よ。彼の寝台は鉄の寝台で、それはアンモン人のラバにあるではないか。その長さは規準のキュビトで九キュビト〔約4m(筆者挿入)〕、その幅は四キュビト〔約1.8m(筆者挿入)〕である──2017)とあります。

 イスラエルはバシャンへの道を上って行きました。ここでもヘシュボンの王アモリ人シホンのように(申命記226-30,32)、バシャンの王オグは、軍隊を引き連れイスラエルに戦いをしかけてきたのです(申命記31)。

 2節に記されているヤハウェ(主)の御言葉は、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」というものでした。

 アモリ人、レファイム人が、このような目にあうということについては、創世記1513-21が参考になります。その箇所には次のように記されています。
12月11日にアップした文章の一部を再掲します。
 “13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地〔エジプト(筆者挿入)〕で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた〔アブラム、後のアブラハム(筆者挿入)〕自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者〔モーセの代{レビ、ケハテ、アムラム、モーセ(出エジプト616-20)}(筆者挿入)〕たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」/
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 再掲しますが、ヤハウェ(主)の、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」(2)という御言葉は、アモリ人、レファイム人の罪が満ちたので、ヤハウェ(主)がイスラエルを用いて裁きを下す、というものであったのだろうと思います。

 旧約聖書を間違って解釈し、キリスト者が他の人や国に好戦的になることは避けるべきであると思います。急に、何故このようなことを書いているかと言うと、間違って捉えてしまう人もいるからです。
 新約の民であるキリスト者の戦いの相手は、悪魔悪霊であって人ではありません。
エペソ612には、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(2017)と記されています。
この聖句をリビングバイブルは次のように意訳しています。
「戦う相手は、血肉を持った人間ではなく、肉体のない者たちです。すなわち、目に見えない世界の支配者たち、この世を支配する暗やみの大王たち、それに、天にいる無数の悪霊です。」とあります。

 またイエス様は次のように語られました。
「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26522017
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイ5392017
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5442017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちキリスト者に戦いを挑んでくる人たちもいますが、私たちの敵は、その人を用いている悪魔悪霊であることを見抜き、主の御名によって、悪しき霊に対して勝利させて頂けますように。
そして、いつも栄光を主に帰していく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月14日 (水)

五つのパンと二匹の魚から五千人以上の空腹を満たした主/主に従う者を養われる主

 マタイ1413-21には次のように記されています。
“13
それ〔バプテスマのヨハネの死の事情(筆者挿入)〕を聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。
群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。
14
イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
15
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。
「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
16
しかし、イエスは言われた。
「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」17 弟子たちは言った。
「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」
18
するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。
19
そして、群衆に草の上に座るように命じられた。
それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
20
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。2017)とあります。

 この話は、読めばすぐにわかる話ですし、誰もが知っているような話であろうと思います。

 このような話は、神様の偉大さを信じることの出来ない人にとっては作り話であると思うことでしょう。しかし、主なる神様の御業を体験している人や、主がこのようなことを信じることのできる恵みを与えられている人にとっては当たり前の事柄なのです。
 旧約聖書を読んだ人は、出エジプトをしたイスラエルの民(20歳以上の男子だけでも60万人以上いました。婦女子を合わせると何人になることでしょう)が、荒野を旅した約40年間、神である主は、マナという食物を与えたのです(出エジプト記16章、ヨシュア510-12)。

 今日の箇所の主の奇跡は、主が、5つのパンと2匹の魚から、男子約5000人+女性+子供を養った話です。
この食事にあずかった人たちは、主の話を聞くために主のもとに集まって来ていた人たちでした。

 イエス様の周りにいる人達は、「神の国と神の義を求めている人たちでした。」
それ故、イエス様の話を聞きたくて、イエス様の下に集まった人たちです。
13
節には、イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。と記されていますから。

 イエス様の後を追ってきた人達の中には病人たちもいました。そして、イエス様が病人たちを癒している間に夕方になったのです。
おそらく人々の多くは食料をもって来ていなかったのでしょう。
その人たちを哀れに思った主イエス様は、主を賛美してから、少年(ヨハネ69)が持ってきていた5つのパンと2匹の魚を従ってきた人たちに分け与えたのです。
人々は、皆満腹するまで食べました。
パンと魚は分けるたびに増えていき、皆が食べ終わった後には、12のかごにいっぱい残っていたのです。

 イエス様は山上の説教の中で次のように語っておられました。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6章・2017)という御言葉を実証したのです。

 それでは働かなくてもよいのか、というとそれは違います。
1
テサロニケ411には、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。(新改訳初版~第三版)と記され、
2
テサロニケ36-12には、
“6
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
7
どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。
あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。9 私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。
10
あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
11
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。2017)と記されています。

 通常の場合、主は、食べて行くことが出来るように個々人に仕事を与えてくださるのです。
キリスト者はどのくらい与えられたら満足すべきなのでしょうか。
1
テモテ68には、“食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。”(2017)とあり、
ヘブル135には、“金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない〔あなたを見捨てない(2017)」と言われました。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は、物質的な満足ではなく、主との交わりによる霊的な満足を持つことができるのです。1テモテ66をリビングバイブルは、“ほんとうに富む者になりたいと思いますか。もし今、幸福で、心が満ち足りているなら、あなたはすでに富む者なのです。”と意訳しています。       

 恵みの時代、キリストは主に在るキリスト者の心の中、特にキリスト者の霊と結ばれているのです。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト(コロサイ1272017)と記され、
主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。1コリント617・聖書協会共同訳)と記されています。
1
コリント617を岩波訳は、主に接合させられる者はしかし、〔「主と」(訳者挿入)〕一つの霊なのである。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、私たちあなたを信じる者を、恵みによって扱ってくださっておられますからありがとうございます。
今日もあなたに守られ、導かれ、支えられ、あなたの祝福の内を歩ませて頂けますからありがとうございます。
御名をほめたたえ、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月13日 (火)

主は主権者、主のご計画は成就する

 箴言1921を、
2017
は、人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。と訳し、
新共同訳は、人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。と訳し、
聖書協会共同訳は、人の心にはたくさんの企て。主の計らいだけが実現する。と訳し、
フランシスコ会訳は、人の心には多くの計画があるが、主のみ旨だけは変わることがない。と訳し、
新改訳初版―第三版は、人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。と訳し、
口語訳は、人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。と訳し、
リビングバイブルは、人はたくさんの計画を立てますが、主の計画だけが成るのです。と訳しています。

 前半部分と後半部分の間には、接続詞の「ヴェ」というヘブライ語があります。
「ヴェ」には、そして、しかし、さて、また、・・等、色々な意があります。

 自分の計画がうまくいかないときの言い訳としても使えそうですね。
逆に、悪いことをしても成功すれば、「これは主の御旨だ」と言うことも可能なような聖句です。

 主は、人が悪を行っても、後に主の聖なることを人々に見せるために、それを放置しておくこともあります。しかし最長でも、主の審判迄待てばこの聖句は生きてきます。
主の審判迄待てばこの聖句は生きてきます、と書いたのは、主が悪を放任される場合もあるからです。(放任も御旨だよ、と言われる方もいるでしょうが)

 ローマ118-28に次のように記されています。
“18
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
24
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
25
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。2017)とあります。

 現代は、主なる神様が、それは罪ですよ、と教えてくれていることまでも国の法律で正しいとするような時代になっています。
イザヤ520には、「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」(2017)という聖句が記されています。

 聖書の中には、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29292017)という聖句もあります。

 主の御旨が聖書の中に記されていますが、記されているのは、主の御旨のすべてではありません。
私たちは、一つ一つ主に導かれて歩んでいく存在です。

 主のご計画は、必ず実現するという旨が記されている箇所を少し上げておきます。
「いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ。私は神、ほかにはいない。私のような神はいない。私は、終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げてきた。『私の計画は実現し、その望みをすべて実行する』と。」(イザヤ469.10・聖書協会共同訳)
「これは、全地に向けて定められた計画である。また、これは、すべての国々に伸ばされた手である。万軍の主は計画された。誰が覆せよう。主は手を伸ばされた。誰が元に戻せよう。」(イザヤ1426.27・聖書協会共同訳)
「・・、神は約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと考え、・・・。」(ヘブライ617・聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖書の中に記されているあなたの御約束は必ず実現するものですからありがとうございます。
あなたの御言葉にいつも信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル1382017

2022年12月12日 (月)

ヤハウェ(主)は世界の王/主に救われた者は主を賛美することができる

 詩篇47篇は次のように記されています。
“1
すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。
2
まことに、いと高き方主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は恐るべき方。全地を治める大いなる王。
3
国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。
4
主は、私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ
5
神は上られる。喜びの叫びの中を。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は行かれる。角笛の音の中を。
6
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。2017)とあります。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は表題を1節としていますので、2017と比して1節ずつずれています。)

 この詩の解釈をセンナケリブ率いるユダ侵略に関連して書かれている可能性がある(Bible navi)と捉える者あり、契約の箱が行列の中を行進するために作られた{5節参照(新共同訳スタディ版)}と捉える者もあり、ということですが、それらの捉え方を否定するのではなく、今日はキリスト者としての私個人の見方で述べていこうと思います。

 ヤハウェ(主)は全地を治める大いなる王なので、すべての国々の民が主を賛美するようにと、1.2節において、すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。まことに、いと高き方主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は恐るべき方。全地を治める大いなる王。と記されています。

 1テモテ24に、“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(2017)と記されていますが、すべての人が真理を知ることができたら主を賛美することでしょう。中には嫌々ひれ伏す人たちもいるでしょうが。

 救われて主を賛美する人、主に反抗し救われることなく主に平伏せねばならない人もいるという様子が、ピリピ210,11には次のように、
・・、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する・・。2017)と記されているように、そのような時が来るのです。

 3節には、“国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。”と記されています。
それは、エクレシア(教会)が、天と地のキリスト者の集合体であり、キリストの花嫁だからです(エペソ532、黙示録197,8)。
花婿であるキリスト・イエス様が王の王、主の主であり御力を行使されるからです(黙示録1911-21)。
ただしキリストの空中再臨前の今の世にあっては、この世の救われていない人たちは、誰もキリスト者がキリストの花嫁だとは思いませんし、復活され高挙されたキリスト・イエス様(マルコ169.19)を天地の主権者である(マタイ2818)とは思いだにしません。

 4
節には、主は、私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。とあります。
キリスト者の受け継ぐ地は、天の神の王国です。キリスト者の国籍は天にあり、目には見えなくても天の神の王国のパスポートを持っています。それは霊の世界では聖霊の証印として明らかにされています。(エペソ113,14219、ピリピ320、マタイ1343、使徒1915

 5-8節をそのままとると神の箱を運び入れる時の様子を思い浮かべることができます(2サムエル61,2.5.12-15.17,18)。

 5節には、“神は上られる。喜びの叫びの中を。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は行かれる。角笛の音の中を。”とあります。
弟子たちは、主イエス様が天に上って行かれるのを見ました(使徒19)。地の人は主が天に上って行かれる時、誰も角笛を吹いたり喜んだりすることはなかったことでしょうが、天使たちの間では喜びが沸き起こったのではないかと想像します(黙示録512.13をもとに考えて)。

 6-9節には次のように記されています。
“6
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9
・・・・。まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。とありますが、健全な状態にあるキリスト者は、主をほめたたえることをいつも喜びとしているでしょう。

 9節前半には、“国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。”と記されています。

 旧約時代には、アブラハムの神は、モーセに、「イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」と語られました(出エジプト3162017)。

 また主イエス様も次のように語られたと、マタイ811.12に記されています。
あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子ら〔イスラエルの内のイエス様を信じないイスラエル人たち(筆者挿入)〕は外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。2017)とあります。

 詩篇47篇を読んでいて「キリスト・イエスをもといとして」という賛美を思い浮かべていましたので、その歌詞を下記します。
1.キリスト・イエスをもといとして うち建てられし御(み)教会は 君が血を持て買いたまいし 花嫁たちの集まりなり。
2.言葉と色に違いあれど 御民の拝む主一人なり 一つに生まれ 一つに伸び 一つに食し 一つに生く
3.主の教会は試み受け 争いにあい涙すとも その幻を主はよみして ついに勝利を与えたまわん
4.この世と天(あめ)に別れ住めど 御民は聖き神にありて ともに交わり ともに待てり キリスト・イエスの来る日をば(聖歌201番、聖歌総合版160番)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに限りない御愛を注いでくださいました。
まさしく恵み、恵み、恵みです。
あなたを賛美しつつ、あなたのすばらしさを宣べ伝えつつ、あなたの御迎えを待ちます。
アーメン。

2022年12月11日 (日)

ヘシュボンへのヤハウェ(主)のさばき/主を信じる者の救い

 申命記224.25には次のようにヤハウェ(主)のご命令が記されています。
24 立ち上がって出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。
25
今日から、わたしは天下のあらゆる民に、あなたに対するおののきと恐れを抱かせる。彼らはあなたのうわさを聞いて震え、あなたの前でもだえる。」(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は、突然、何を言い出すのだろうか?と思われる人もいると思います。
アモリ人がこのような目にあうということについては、創世記1513-21が参考になります。その箇所には次のように記されています。
“13
主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地〔エジプト(筆者挿入)〕で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた〔アブラム、後のアブラハム(筆者挿入)〕自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者〔モーセの代{レビ、ケハテ、アムラム、モーセ(出エジプト616-20)}(筆者挿入)〕たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」/
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 創世記1516の「アモリ人」はカナン人の総称として用いられていて、そのカナン人を細かく言うと19-21節のようになるのだと思います。今日の箇所は、細かく言った方のアモリ人です。
ヤハウェ(主)のご命令は、「ヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」(24)というものでしたが、これはアモリ人の罪が満ちたので、ヤハウェ(主)がイスラエルを用いて裁きを下す、というものであったのだろうと思います。

 モーセは、いきなり戦いの火ぶたを切ったのではなく、「ヘシュボンの王アモリ人シホンの国」を、平和のうちに通過させてくださるようにと使者を送ったことが次のように記されています。
26 そこで私〔モーセ(筆者挿入)〕は、ケデモテの荒野からヘシュボンの王シホンに使者たちを遣わし、次のような友好のことばを伝えた。
27
「あなたの土地を通らせてください。私は大路だけを通り、右にも左にもそれません。28 食べ物は金で私に売ってください。それを食べます。水も金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。29 セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が私にしたようにしてください。そうして、私がヨルダン川を渡り、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに与えようとしておられる地に行けるようにしてください。」”(2017)とあります。

 しかし、ヤハウェ(主)がさばきを執行しようと決めていましたので、ヘシュボンの王シホンが、モーセの頼みを受け入れることはありませんでした。ヘシュボンの王の心はヤハウェ(主)によって頑(かたく)なにされていたのです〔それはシホンがヤハウェ(主)に敵対していたからでしょう(筆者挿入)〕。それはエジプトの王ファラオの時と同じでした(出エジプト42173,4.13815912.3510271110)。

 30節には次のように記されています。
しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼の心を頑なにし、彼を強気にされたからである。2017)とあります。

 主に対して頑なである故に、主に頑なにされてしまうというのは悲しいことですね。
主に対して従順であることはとても幸いなことです。
主は万物を造られたお方です(創世記1章、コロサイ116)。そして、万物を保っておられるお方です(ヘブル13)。
その主であるからこそ、「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。」(申命記10142017)と言うこともできるのです。

 造られた者が造ったお方に対して感謝も賛美もせず、敵対するとどうなるのかということを聖書は教えてくれています。ヘブル語のサタン(サーターン)という語は、対抗者 、敵 、反対者の意です。主なる神に対する敵対者なので堕天使の親分である悪魔はサタンと呼ばれています。

 ヤハウェ(主)はモーセにもう一度次の様な命令をくだされました。31節には次のように記されています。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「見よ、わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めている。占領し始めよ。その地を所有せよ。」2017)と。

 ヤハウェ(主)は、イスラエルを用いてヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を裁きました。32-36節には次のように記されています。
“32
シホンとそのすべての兵が、私たちを迎え撃つためヤハツに出て来たとき、33 私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子たちとそのすべての兵を討った。
34
そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取り、すべての町、男、女および子どもを聖絶し、一人の生存者も残さなかった。35 私たちは、攻め取った町々での略奪物のほかは、家畜を分捕っただけであった。
36
アルノンの渓谷の縁にあるアロエル、およびその渓谷の中の町からギルアデに至るまで、私たちの力が及ばない町は一つもなかった。私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそれらをみな私たちの手に渡されたのである。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)が滅ぼすように命じられていない国に対しては、イスラエルが攻撃を仕掛けることはありませんでした。37節には次のように記されています。
ただ、あなたはアンモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が命じられたとおり近寄らなかった。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは義なるお方ですから、罪を必ず裁かれるお方です。
しかしあなたは、愛なるお方でもあります。
あなたはイエス・キリスト様の贖いによって私たち主イエス様を信じる者の罪を完全に赦してくださいました。
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたの栄光がとこしえにほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 9日 (金)

激しく憤る性格の人は救いようがないが、主イエス様はその人を救い、変えることができる

 箴言19192017は、
激しく憤る者は罰を受ける。たとえ彼を救い出しても、ただ、これを繰り返すことになる。と訳し、
 リビングバイブルは、
短気な者が失敗したら、自分で後始末をさせなさい。一度でも助けてやると、くり返すようになります。と意訳しています。

 生まれながらに癇癪持ちの子が一定の割合でいるのではないかと思います。そのような神経過敏で怒り易いような子に対処するために、古来より、樋屋奇応丸や宇津救命丸などが販売されてきました。更に怒りっぽければ漢方薬では抑肝散、怒りが強ければ抑肝散加芍薬黄連、怒りが続き、腹部大動脈の拍動の亢進が見られたり、胃弱の状態が加味されていれば抑肝散加陳皮半夏などが子どもの場合には用いられてきました(大人に対しても使いますが)。大人になっても怒り易い人には更に多くの処方が用意されていました。
西洋医学的には、興奮を抑えるタイプの薬を用いれば、その時には抑えることができるでしょう。

 注解付新改訳聖書の注は、この箇所の注として、激しく憤る者は救い出そうとしてもむだである。なぜなら彼は何度も同じことを繰り返すからである。と述べています。

 リビングバイブルの意訳は、程度の軽い人の場合でしょう。
注解付新改訳聖書の注の解釈は、その程度が軽くない人の場合でしょう。

 激しく憤る性格を持っていたら絶望的なように思えてきます。
激しく憤る人には、怒りの霊(悪しき霊)が憑(つ)いてしまうことがあるのです。
この霊を主イエスの御名によって追い出すことは出来ますが、当の本人がイエス様を信じなければ、更に状況が悪化する場合があるのです。
主イエス様は次のようなお話をしました。
「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」(ルカ1124-262017)と記されています。

 悪霊追い出しは、悪霊につかれている人が、イエス様を信じたいという願いを持っていない場合には、危険な場合もあるのです。
しかし、イエス様を信じて救われたいという願いを持っている人であればとても素晴らしいことが起こります。
その人は怒りの霊から、そして怒りから解放されるのです。
イエス様の公生涯時代にそのようなことが起こりました。
 ルカ826-39には次のように記されています。
“26
こうして彼ら〔イエス様と弟子たち(筆者挿入)〕は、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。
27
イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。
28
彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。
「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」
29
それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。
30
イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。
31
悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。
32
ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。
33
悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。
34
飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。
35
人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。
36
見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。37 ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、38 悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
39
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」
それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。2017)とあります。

 箴言1919を聖書協会共同訳は、激しく憤る者は罰を受ける。助け出しても、またそれを繰り返す。と訳しています。
新約の恵みは素晴らしいです。
本人が望めば、肉の性質が主の霊の御性質に変えられるのです。
変えてくださるのは主です。

 ガラテヤ519-25には次のように記されています。
“19
 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22
 これに対し、霊〔キリストと一つとされた霊{1コリント617}(筆者挿入)〕の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
24
 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは霊〔「キリストはいのちを与える霊となりました{1コリント1545}(筆者挿入)」によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。(聖書協会共同訳)とあります。

 2コリント318には次のように記されています。
私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
恵みの時代に生かされている幸いを感謝します。
主は気質の好ましからざる面をも変えてキリストに似た者に変えてくださいますから感謝します。
御名をほめたたえ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 8日 (木)

何があってもイムマヌエルなのだから

 詩篇4610,11には次のように記されています。
“10
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11
万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ(新改訳2017)とあります。

 10節の「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と訳されている中の「やめよ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーファー」で、緩める、減じる、弱める、じっとしている、静まる、・・等の意があります。
新改訳が「やめよ」と訳した箇所を、
文語訳は「しづまりて」と訳し、
口語訳は「静まって」と訳し、
新共同訳は「力を捨てよ」と訳し、
フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は「静まれ」と訳しています。

 詩篇468-11をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“8
さあ、主がどんなにすばらしいことをなさるか、よく見なさい。主は全世界を灰とし、
9
世界のすみずみまで戦争をやめさせ、武器という武器を残らず破壊し、焼き捨てます。
10
「よく聞きなさい。わたしこそ神であることを、よくよく知りなさい。わたしは全世界でほめたたえられる。」
11
天の軍勢の主は、確かに私たちの味方です。ヤコブの神であるこの方が、駆けつけて助けてくださいました。とあります。

 この出来事はこの世の終わりに起きます。
キリストの千年王国時代の終わりにも似たことが起こるのですが、その時の神様の対処の仕方は異なります。
その時には、天から火が下って敵対者たちを焼き尽くすのです。

 人々を二つに分類すると、神である主にひれ伏し、神に従って行こうとする人たちと、死をかけても神なる主に反発していこうとする人たちがいるのです。

 詩篇21-3には、どうしても神である主に従うことに耐えられない人たちが数多くいることを教えてくれます。その箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“1
主に向かって怒り狂うとは、何と愚かな国々でしょう。神を出し抜こうとするとは、なんと身のほど知らずな者たちでしょう。
2
地上の王たちが相集い、主と、主に油注がれた者への反逆をもくろんでいます。
3
彼らは言います。「さあ、神の鎖を断ち切ろう。神から自由になろうではないか。」とあります。

 真実に主なる神様に従おう、という人たちは、多数派ではないのでしょう。というか少数なのかもしれません。
主イエス様が語られた御言葉の中には、「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12322017)という御言葉がありますし、「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ1882017)という御言葉もあります。

 詩篇4611aには、「万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわれらとともにおられる。」と記されています。
マタイ118-25には次のような文章が記されています。
“18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。
「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
24
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。2017)とあります。

 イムマヌエルというヘブライ語は、イマヌエルとも読みます。
「イム」は「共に」、「ヌ」は「私たち」、「エル」は神の意です。
「イエス」はヘブライ語では「イェホシュア」{「ヤハウェ(主)は救い」の意です}or「イエシュア」です。ですから「イエス」は、救い主なのです。

 詩篇46篇に記されている出来事は尋常ではありません。
“2
・・・。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。3 たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。/
6
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らぐ。と言うような状況の中でも、主に信頼する者にとって、主はイムマヌエル(イマヌエル)の神です。

 イザヤ3015abは次のように記されています。
イスラエルの聖なる方、神である主〔「アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)」はこう言われた。
「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主イエス様は私たちと共におられるお方ですから御名を崇めて感謝します。
今日もイエス様と一緒に歩ませて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 7日 (水)

歴史を支配しておられる主

 申命記29-23には次のように記されています。           
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたには、その地を所有地として与えない。わたしはアルをロトの子孫に所有地として与えたからである。
10
──以前そこにはエミム人が住んでいた。アナク人のように大きくて背が高い民で、数も多かった。11 アナク人と同じく彼らもレファイムであると見なされていた。モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。
 12 セイルには以前フリ人が住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにし、彼らに代わって住むようになった。ちょうど、イスラエルが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の下さった所有地に対してしたようにである──
 13 今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。
14
カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らについて誓われたとおりであった。15 確かに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされたのである。
 16 戦士たちがみな民の間から絶えたとき、17 主は私に告げられた。
18
「あなたは今日、モアブの領土アルを通ろうとしている。19 アンモン人の近くに行くが、彼らに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたにはアンモン人の地を所有地として与えない。わたしはそれをロトの子孫に所有地として与えたからである。
20 
──そこもレファイムの地だと見なされていた。以前はレファイムがそこに住んでいて、アンモン人は彼らをザムズミム人と呼んでいた。21 彼らは、アナク人のように大きくて背が高い民で、数も多かった。しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がこれを滅ぼされたので、アンモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んだ。22 それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からフリ人を滅ぼされたのと同じである。彼らはフリ人を追い払い、彼らに代わって住み、今日に至っている。
23
また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人については、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにし、彼らに代わって住んだのであった──2017)とあります。

 申命記24,5には、ヤハウェ(主)がエサウにセイル山を与えらことが次のように記されていました。
“4
民に命じて言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子ら、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。ただし、あなたがたは十分に注意せよ。5 彼らに戦いを仕掛けてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほどさえも、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイルの山を、彼の所有地として与えたからである。2017)とあります。

 申命記1014に、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。2017)と記されているように、天地宇宙はヤハウェ(主)の所有物です。
 カナンの地は、イスラエルに与えるとアブラハム、イサク、ヤコブに約束しました。
しかし、その地には他国人(他民族)が住んでいました。
 創世記126,7には次のように記されています。
アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。・・・。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)がイスラエルにカナンの地を与えると言われた理由の一つには、カナン人の罪がありました。
 創世記1512-21には次のように記されています。
“12
日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。
13
主はアブラム〔後のアブラハム(筆者挿入)〕に言われた。
「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎〔「罪」(新共同訳)、「」(口語訳)〕、その時までに満ちることがないからである。」
17
日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。18 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 カナンの地の先住民が追い出されたり殺されたりするのにはそれなりの理由があることを教えられます。それはヤハウェ(主)に対するある一定の条件を満たした罪なのでしょう。
創世記1516には、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。と記され、罪が満ちるとヤハウェ(主)は事を起こされる可能性があるということを知ります。
そしてこの世の終わりにも罪が満ちて、ヤハウェ(主)のさばきが下るのです。
それがキリストの地上再臨です。そしてキリストの王国が誕生するのです。それは地球規模のものです。

 話を元に戻します。
申命記212には、“セイルには以前フリ人が住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにし、彼らに代わって住むようになった。ちょうど、イスラエルが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の下さった所有地に対してしたようにである──”と記され、ヤハウェ(主)がエサウの子孫エドムを用いて、セイルの地に住んでいたフリ人に対処し、セイルの地をエサウの子孫のエドム人に与えたことがわかります。

 いかなる理由(罪)によってかは分かりませんが、ヤハウェ(主)は同様に、アルをロトの子孫モアブに与えました(申命記29)。
また同様に、ヤハウェ(主)は、レファイムの地をロトの子孫アンモン人に与えました(申命記219.21,22a)。

 私たちは、戦争は強いから勝てるとは限らないということをベトナム戦争で見ました。
大義を掲げて戦った先の日本の大戦では、日本は大敗を喫しました。
大義を掲げても主の御旨に反していては、主にある大義ではないのです。
 将来の預言を見ると、ロシア、イラン、トルコ、またそれらに続く国々がイスラエルに戦争をしかけますが、ヤハウェ(主)の御介入でそれらの国々は敗北するのです(エゼキエル38章)。
この時のヤハウェ(主)の直接介入の戦い方は、大地震を発生させ、イスラエルに攻めこむ者達の中で同士討ちを起こさせ、イスラエルに攻めてきた民の上に豪雨、雹、火、硫黄を降らせるという方法です。

 キリスト者の先達は、historyHis(神の)storyと言ったそうです。

人はたくさんの計画を立てますが、主の計画だけが成るのです。(箴言1921・リビングバイブル)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
1
ヨハネ514に「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。」(聖書協会共同訳)とあります。
私の祈りをいつも御聖霊が導いてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 6日 (火)

イエスを見たとき、イエスを肉として見た人とイエスを霊の観点から見た人の違い

 マタイ1353-58には次のように記されています。
“53
イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。
すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」
57
こうして彼らはイエスにつまずいた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
58
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。2017)とあります。

 主イエス様が郷里のナザレに帰って神の御言葉を語られた時のナザレの人たちの反応が記されています。
当時のナザレは寒村で、人口が数百人くらいの村であったそうです(とイスラエルのガイドさんから約30年前に聞きました/うる覚えですが)。

 人口の少ないナザレ村ですから、村民は、大工のヨセフ家をよく知っていたのです。
55,56
節には、「この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。」と村人は言っています。
ヨセフ家の男子の子どもたちの名前まで間違わずに言っているくらいです。
ですから、イエス様が、御言葉を語り、これまでに奇跡を行ってきたことを聞いてはいても、ヨセフ家の長男のイエスは父親の手伝いで大工仕事をしていた者ではないか、という見方をしたのです。
すべて肉で見ることの出来る見方をしていたのです。
霊的真理に心を向ける者はあまりいなかったようです。

 パウロ(ヘブル名:サウロ)も主イエス様に直接お会いして目が見えなくなるという体験をする前は、肉的な見方をしていたのです。
使徒91-9には次のように記されています。
“1
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅(おびや)かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3
ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4
彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
5
彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
7
同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。2017)とあります。

 サウロ(ギリシア名:パウロス)が主にお会いするまでには、サウロは、キリスト信者を迫害し、牢に入れたり、死にまでも至らせたのです(使徒224)。

 サウロ(ギリシア名:パウロス)も救われる前は、イエス様とイエス様を信じる者を肉の目でしか見ることができなかったのです。
使徒パウロはそのことを次のように述べています。
「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5162017)と。

 サウロ(ギリシア名:パウロス)は旧約聖書に精通していましたが、旧約聖書に記されている食べ物と飲み物について、あるいは祭り(例えば、過越の祭や初穂の祭や仮庵の祭etc.)や新月や安息日のこと(コロサイ216抜粋・2017)などについて、実体はキリスト(コロサイ217抜粋・新共同訳)にある、などということをサウロは分からなかったのです。

 仮庵の祭とキリストについて:
御子は神です(ヨハネ11、ローマ95)。神は霊です(ヨハネ424)。そしてヨハネ114を、岩波訳のように次のように訳すこともできるのです。
ことばは肉〔なる人〕となって、われわれの間に幕屋を張った。と。
仮庵は、キリストの地上のからだ、と捉えることもできます。キリストの元来の本体は霊です。
幕屋の中に聖所と至聖所があるのです(出エジプト記26章)。
これは肉体の中にたましいと霊があるということを暗示しているでしょう。
また仮庵の祭はキリストの千年王国の予表と捉えることもできます。
キリストの千年王国の後には、永遠に続く新天新地が来るのです(新天新地は神様が新創造されるのです)。このような順序は1コリント1523-28も参考になります。

 話を元に戻します。
霊の目をもってイエス様を見ないと真理がわからないのですが、これはそう簡単なことではありません。マタイ1613-17には次のように記されています。
“13
さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です2017)とあります。

 ナザレの人たちの大部分やパリサイ人、律法学者の大部分は、イエス様を人と見てしまったのです。
それだけではありませんでした。マルコ3章には次のように記されています。
“21
これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。/
31
さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
32
大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
33
すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」2017)とあります。

 主イエス様の復活後、ヨセフとマリアの子どもであるヤコブはヤコブの手紙を、ユダはユダの手紙を聖書に残すほどの働きをさせていただきました。
これも神様の恵みです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様をキリストと信じることを得させてくださりありがとうございました。
58
節には、「彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。」とあります。
いつも主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 5日 (月)

施しと報い

 箴言1917には次のように記されています。
貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。2017)とあります。

 この箴言の言葉、即ち、「貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。」という文は、単に人間ソロモンの知恵というわけではなく、申命記157-11に神のことばとして次のように記されています。
 “7 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞〔イスラエルは地上の神の国の民(筆者挿入)〕の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。8 必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。9 あなたは心によこしまな考えを抱き、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。10 必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。11 貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」2017)とあります。

 これは、神の民に対して語られている御言葉です。
新約時代における神の民は、主キリスト・イエス様を信じる者たちです。
ガラテヤ68-10には、
“8
 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊〔定冠詞付きの「霊」(筆者挿入)〕に蒔く者は、霊〔定冠詞付きの「霊」(筆者挿入)〕から永遠の命を刈り取ります。
9
 たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
10
 それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(聖書協会共同訳)と記されています。

 箴言や申命記の聖句の様に言われると、多くの人は、物品やお金を施すことであると思うことでしょう。もし衣食に困窮している主にある兄弟姉妹に遭遇したとしたら、その通りにすべきでしょう(1テモテ68参照)。
しかしクリスチャンであると自称しても、収入に見合う生活をすれば不自由しないはずなのに、収入よりも支出の方が多い生活をし、いつも家計が赤字で人からお金を工面しようとする人もいます。このような人の場合は、生活を改めてもらうしかありません。

 キリスト者は物品やお金だけを与えるという存在であるだけではなく、滅びゆく人や霊の貧しい人に主の御言葉を提供することができる存在なのです。
 イエス様とサマリアの女性との会話がヨハネ47-14に次のように記されています。
“7
一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。
イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。/
9
そのサマリアの女は言った。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
10
イエスは答えられた。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11
その女は言った。
「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
13
イエスは答えられた。
この水を飲む人はみな、また渇きます14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」2017)とあります。

 ペテロは言いました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。」(使徒362017)と。
これはキリスト者でなければ言うことができないのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちの内に住んでおられる主の導きに従い、ある時には物品を、ある時にはあなたの御言葉を提供することができますようお導きください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 4日 (日)

キリストの地上再臨時に見られる預言の一つ/神であるヤハウェ(主)を信じるイスラエルの信仰者の救いの時

 詩篇466-9には次のように記されています。
“6
国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7
万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
8
来て見よ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9
主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる。2017)と記されています。

 この箇所は過去の出来事のときの預言であったと捉えることもできますが、携挙後の大患難時代のどん詰まりの時に起こる預言であるとも捉えることができます。
即ち、王の王、主の主、万軍の主であるキリスト様の再臨時の出来事です。

 黙示録1612-21には次のように記されています。
“12
第六の御使いが鉢の中身を大河ユーフラテスに注いだ。すると、その水は涸れてしまい、日の昇る方から来る王たちの道を備えることになった。
13
また、私は竜〔サタン(筆者挿入)〕の口と獣〔反キリスト(筆者挿入)〕の口、また偽預言者〔時の宗教指導者(筆者挿入)〕の口から、蛙のような三つの汚れた霊が出て来るのを見た〔悪の三位一体と呼ばれる彼らの中には悪しき霊が満ちているのでしょう(筆者挿入)〕。
14
これらは、しるしを行う悪霊どもの霊であり、全世界の王たちのところに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを召集するためである。〔諸国の国家元首たちも悪しき霊の思いのままです{エペソ22参照}(筆者挿入)〕/
16
こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドン〔メギドの丘or山(筆者挿入)〕と呼ばれる場所に王たちを集めた。
17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロン〔バビロンのヘブライ語は「バベル」(筆者挿入)〕を忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
21
また、一タラントほどの大きな雹〔34-35kg/1個の雹(筆者挿入)〕が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。2017)とあります。

 黙示録1616のハルマゲドン(メギドの丘or山)について、聖書辞典は次のように述べています。
エスドラエロンはヨルダン峡谷に次ぐ大平原で、カルメル山脈を底辺とし、タボル山を頂点とする一辺およそ33キロの正三角形の平野である。面積はおよそ250平方キロメートルで、キション川によってうるおされている豊かな地域である。イズレエルとは、「神が種を蒔いてくださる」という意味である。イズレエルの町とメギドの町とが、キション川をはさんであり、聖書ではイズレエルの谷(ヨシ17:16)ともメギドの平地(Ⅱ歴35:22)とも呼ばれている。/Ⅰマカベア12:49には、「大平野」と記されている。新約聖書では、ハルマゲドン(「メギドの山」の意味)という名で、この地域のことが記されている(黙16:16(抜粋)とあります。

 反キリスト(時の世界支配者)は、メギドに諸国の軍隊を集め、エルサレムに侵攻するのでしょう。
 ゼカリヤ121-9には次のような預言が記されています。
“1
宣告。イスラエルについての主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の告げられたことば。
2
「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。
4
その日──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──
わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。
5
ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕によって私の力となる。』
6
その日、わたしはユダの首長たちを、薪(たきぎ)の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。
8
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いのようになる。9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。2017)とあります。

 このような勝利は、王の王、主の主であられる私たちの主キリストが御声を発せられると起こるのであろうと思います。
黙示録1911-21には次のように記されています。
“11
また私は、天が開かれているのを見た。
すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。13 その方は血に染まった衣〔イザヤ631-6参照(筆者挿入)〕をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた〔おそらくさばきのことばでしょう(筆者挿入)〕。鉄の杖で彼らを牧する〔黙示録125参照(筆者挿入)〕のは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。
「さあ、神の大宴会に集まれ。18 王たち〔諸国の君主たち(筆者挿入)〕の肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」
19
また私は、獣〔反キリスト(筆者挿入)〕と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢〔再臨のキリストとその軍勢(筆者挿入)〕に戦いを挑むのを見た。
20
しかし、獣〔反キリスト(筆者挿入)〕は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。
21
残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。2017)とあります。

 この箇所を、ただの預言としてだけ読むのはもったいないことです。
主の言葉には力があります(ヘブル412)。
 マタイ8章に次のような記事があります。
“5
イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
6
「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
7
イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8
しかし、百人隊長は答えた。
「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
10
イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
11
あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。12 しかし、御国の子ら〔イエス様を信じないユダヤ人たち(筆者挿入)〕は外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
13
それからイエスは百人隊長に言われた。
「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」
すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。2017)と記されています。

 主が御言葉を下さると、それは実現するのです。
そのことは私たちにもあてはなります。
もし実現しないときは、その人の思い込みや他の霊から来たものでしょう。

 神のことばは生きていて力があるのです。(ヘブル412

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日も主の御言葉によって強めてくださり導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 3日 (土)

必要を満たしてくださる主

 申命記21-8には次のように記されています。
“1
それから、私たちは向きを変え、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私に告げられたように葦の海の道を荒野に向かって旅立ち、長らくセイル山の周りを移動していた。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私にこう言われた。
3
「あなたがたは長い間この山の周りを移動してきたが、北の方に向きを変えよ。4 民に命じて言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子ら、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。ただし、あなたがたは十分に注意せよ。5 彼らに戦いを仕掛けてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほどさえも、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイルの山を、彼の所有地として与えたからである。6 食物は彼らから金で買って食べ、水も彼らから金で買って飲まなければならない。7 事実、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」
8
それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エイラトからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちは向きを変えて、モアブの荒野への道を進んで行った。2017)とあります。

 1節には、それから、私たちは向きを変え、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私に告げられたように葦の海の道を荒野に向かって旅立ち、長らくセイル山の周りを移動していた。と記されています。
 申命記119-45のモーセの話の内容は、民数記131-1445に詳しく記されています。
冒頭に「それから」とありますが、この「それから」は、民数記1445の後のことです。
民数記131-1445の話の内容は、エジプトの地での過越の日から11か月経った後のことです。そして民数記1445の後、私たちは向きを変え、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私に告げられたように葦の海の道を荒野に向かって旅立ち、長らく〔38年近く{申命記214参照}(筆者挿入)〕セイル山の周りを移動していた。ということになるのだと思います。

 3,4節には、あなたがたは長い間この山の周りを移動してきたが、北の方に向きを変えよ。民に命じて言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子ら、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。・・・。とあります。
 おそらく、この少し前にアロンとモーセの姉であるミリアムは死んだのです(民数記201)。
そして、エドムがイスラエルをエドム領内を通らせてくれないという後にアロンは死んだのでしょう(民数記2014-29)。

 
今日の箇所に記されている「それから」(1)の約38年弱前に、民数記1428-30で語られた次の内容が、荒野の38年間の間に、着々と成就していっていたのです。民数記1428-30には次のように記されています。
“28
彼らに言え。わたしは生きている──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。
わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。
29
この荒野におまえたちは、屍(しかばね)をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員(民数記11-46)である。30 エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。2017)とあります。

 申命記の内容が語られたのは短期間でした。モーセも約束の地カナンを目にすることは出来ましたが、そこに入ることは許されず死んだのです。
そのように民数記1430のヤハウェ(主)の御言葉は成就していくのです。

 私たちに対する神である主の約束の御言葉は、
「御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ318
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」(ヨハネ336
というものです。
なんと有り難いことでしょうか。
主の御名をほめたたえます。

 この世の政治家は、自分が住む国の土地は自分たちの国の土地であると言いますが、実はそれは間違っていて、主が与え、また主が取り上げることもあるのです。
主に取り上げられるときは、よっぽどのことがあったときなのではないかと思います(一例として、創世記1516参照)。

 モーセがこのところで語っていた時代、「わたしはエサウにセイルの山を、彼の所有地として与えた」(5)とヤハウェ(主)は語っておられます。
使徒1726には、・・、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。(口語訳)と記されています。

 7節には、“事実、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」”と記されています。

 必要な物についてのキリスト者への約束を主は次のように教えてくださっておられます。
主イエス様は、「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。」(マタイ633,34・聖書協会共同訳)と語られましたし、
フィリピ419には、「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(聖書協会共同訳)と記されています。
「必要な物」について、神様と個々人の間には開きがある場合もあるでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御言葉を信じ、あなたの御言葉に従い、あなたの約束の御言葉の内に安らぎ、あなたを愛し、あなたの子どもとしてふさわしくあなたの御名を崇めつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 2日 (金)

この世の終わりの時代における救いとさばきの主のご計画の譬え、及び主に聖書を教えられた者の幸い

 マタイ1347-50は、この世の終わりに主がご計画している救いと裁きについて次のように記しています。
 “47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
49
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。2017)とあります。

 この譬えは、キリストの空中再臨時に起こる携挙の、後の事柄の一つを譬えで教えてくださっている箇所です。

 49節の「この世の終わり」の「終わり」と訳されている語のギリシア語原語は「スンテレイア」で、完了、終焉等の意があります。
「この世の終わり」とは、人間がいなくなることではなく、人間が人間を統治する時代が満了する、ということです。
その後の1000年間は、キリストが王の王として統治し(黙示録201-6)、その後に現在の天地は滅び(黙示録20112ペテロ310)、主なる神様が新天新地を創造され(イザヤ6517、黙示録211)、御父がとこしえに統治される(1コリント1524.28)のです。

 
マタイ1347-50の箇所を、イエス様は別の譬えでも語られました。
それはマタイ2531-46です。
これはこの世が満了し、キリストの再臨時に起こることです。
マタイ2531-33には、人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。2017)と記されています。

 マタイ1347-50の箇所と合わせて考えると、御子キリスト・イエスのご命令によって天使たちが働くのでしょう。
マタイ1349の「正しい者たち」をマタイ2531-46の箇所では「羊」と表し、
マタイ1349の「悪い者ども」をマタイ2531-46の箇所では「やぎ」と表しています。

 マタイ1351,52には次のように記されています。
“51
「あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」
彼らは「はい」と言った。
52
そこでイエスは言われた。
「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」2017)とあります。

 52節をリビングバイブルは、
そこでイエスは、さらにこう言われました。
「ユダヤ人のおきてに通じ、しかも、わたしの弟子でもある人たちは、古くからある聖書(旧約)の宝と、私が与える新しい宝と、二つの宝を持つことになるのです。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、旧約聖書も新約聖書も与えられている時代に生かされておりますことを感謝します。
その上、真理の霊である御聖霊が御言葉の意味を教えてくださるという恵みも与えられていますからありがとうございます。
常に聖霊様が正しく聖書の意味を教えてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月 1日 (木)

御怒りか御恵みか

 箴言1912には次のように記されています。
王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その好意は草の上の露のよう。2017)と訳し、
リビングバイブルは、王の怒りはライオンのうなり声のように恐ろしく、優しいことばは草に降りる露のように快いものです。と意訳しています。

 この聖句は、人間の王を指して語っているのでしょうが、私たちキリスト者にとっては、王を「王の王」であるキリスト・イエス様として捉えると、現実味を増してきます。

 「王の王」が御怒りを発する時がやがて来ます。
その時の様子を黙示録1911-21は次のように記しています。
“11
また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる
12
その目は燃える炎のようであり〔義をもって裁きをするときの目の色なのでしょう(筆者挿入)〕、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた〔御子の言葉には力があります(筆者挿入)〕。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16
その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。18 王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」
19
また私は、獣〔反キリスト(筆者挿入)〕と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印〔666{黙示録1317,18}(筆者挿入)〕を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。21 残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。2017)とあります。

 13節には、“その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。”という預言が記されていますが、
イザヤ631-6には次のような預言が記されています。
“1
「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」
「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
2
「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」
3
「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに啞然(あぜん)とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」2017)とあります。

 ボツラは、神を信じるユダヤ人たちが、大患難時代に獣{(反キリスト)サタンに取りつかれている}から逃れ神によって養われる場所なのではないかと思います。
 また黙示録1213,14には、
竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女〔イスラエル(筆者挿入)〕を追いかけた。14 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間〔三年半の間(筆者挿入)〕、蛇の前から逃れて養われるためであった。2017)と預言されています。

 上記に記したさばきと神を信じるユダヤ人の救いに関連の聖句は、主イエス様がマタイ24章で次のように語られた箇所と関係するものでしょう。
“15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られた〔ダニエル927(筆者挿入)〕あの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。22 もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たち〔神を信じているイスラエル人たち(筆者挿入)〕のために、その日数は少なくされます。2017)と記されています。

 新生してキリストの空中再臨を待ち望み、日々祈りをささげているキリスト者は、大患難時代が始まる前には、天に携え挙げられているのです(1テサロニケ416,17)。即ち御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕にはあわないのです(ヨハネ318a1テサロニケ110、黙示録310)。
黙示録310の直訳は、なんじはわが忍耐のことばを守ったから、わたしもなんじを試みの時から〔ギリシア語原語は「エク」(筆者挿入)〕守ろう。それは地に住むものを試みるために、全世界にのぞもうとしている。(前田訳)となります。

 気をつけなければならないのは、キリストの空中再臨前には、背教が起こるのです。獣(反キリスト)が現れる前に背教が起こるのです(2テサロニケ23)。
今まで、キリスト教国と言われていたような国々で、近頃(大分前からですが)顕著なように思えます。
聖書が、「いけない」と言っているようなことを、「悪くない」と言うような状態にしているのです。聖書で述べているような御言葉を薄めてしまったり、都合よく解釈したり、それはもう古いということで見向きもしなくなっているのです。このような人は、自分ではキリスト者であると思っていてもマタイ258.10-12に記されているような立場の人であるのです。

 一方、王の王、主の主であられる方、神のひとり子の御子であられ、唯一の救い主であられるお方は、恵みの時代の間は、恵み豊かに接してくださるのです。
主イエス様ご自身が、「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章・2017)と語られたのです。

 使徒ヨハネは、・・・。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1142017)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主は恵みとまことに満ちておられる方ですからありがとうございます。
主の恵みとまことを大切にし、主に感謝して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月30日 (水)

神は私たちの助け主

 詩篇461-3を新改訳2017は次のように記しています。
“1
神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。とあります。
(表題を1節としている新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、この箇所を2‐4節としています。)

 1節には、“神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。”とあります。
ヘブライ語原語を基にしていくつもの日本語を入れて書くと、「エロヒーム(神)は、私たちのためのマㇵセー(シェルターor避難所or希望or頼み)、そしてオーズ(力)、〔エロヒーム(神)は、(筆者挿入)〕ツァーラー(緊張、窮屈、逼迫、艱難、苦痛、苦難、試練、問題、悩み、敵、逆境、災難)のためのorのときのエズラ(助け)、そしてメオド(熱情、完全に、全面的に、すばやく)マーツァー(来る、現れる、存在する)」となります。
{( )外のカタカナはヘブライ語をカタカナにしたものです。}

 3節には、“たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。”とあります。
 戦争に、飛行機や鉄砲、大砲等が現れる以前は、「水が立ち騒ぐ」というのは、敵の軍勢が立ち騒ぐことを意味していたと捉えることもできました。「水かさが増す」というのは、敵の兵員の数が増すと捉えることもできました。「山々が揺れ動く」というのは、あちらこちらの軍の陣地が移動するようなことをも意味したでしょう。

 しかし、現代は聖句の通り、「水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても」ということが自然現象としても、よく見られるようになってきました。

 しかし一方、大患難時代には、イエシュア(イエス)をハメシアハ(定冠詞付きキリスト)とは信じていないので携挙されなかったけれども、神を信じているイスラエル人たちの守られる様子が、黙示録1213-17に次のように記されています。
“13
竜〔悪魔{サタン}(筆者挿入)〕は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子〔キリスト(筆者挿入)〕を産んだ女〔イスラエル(筆者挿入)〕を追いかけた。
14
しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所〔おそらくエドムの地のボツラ、ペトラの北方{イザヤ631(筆者挿入)〕に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間〔3年半の間(筆者挿入)〕、蛇〔悪魔(筆者挿入)〕の前から逃れて養われるためであった。
15
すると蛇はその口から、女のうしろへ水〔軍隊(筆者挿入)〕を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした〔武力によって殺そうとした(筆者挿入)〕。
16
しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した〔地割れにより敵の軍が地に下るのでしょう。コラの時のように{民数記1630-33}(筆者挿入)〕。
17
すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。2017)とあります。
この情景は大患難時代の後半部分の時代のことが記されていますから、携挙されたキリスト者はこれを見ないかも知れません。

 これより少し前の大患難時代の前半には、既に黙示録の第6の封印が開かれるのです。
そこには次のように記されています。
“12
また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
13
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。
14
天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。
15
地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。
16
そして、山々や岩に向かって言った。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示録6章・2017)とあります。

 キリストの空中再臨を待ち望んでいるキリスト者は、日々主に祈りをささげているでしょう。
そのような人は幸いです。
ヘブル928には、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます2017)と記されています。
 このキリストの現れの時に関して、1テサロニケ416,17は次のように記しています。
“16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)とあります。
 また、ルカ2136には、「あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
イエス様が語られた「これらのこと」とは、ルカ21章に記されています。

 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださったのです(ガラテヤ14)。
キリストは、やがて来る御怒り(神の怒り)からキリストの内にある者を救い出してくださるお方です(1テサロニケ110)。

 今の時代も大変な時代ですが、大患難時代と比べると本当に些細なことです。

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(新改訳第三版)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、何が起こるかわからない時代の中で生活しています。
しかし、あなたこそは、私たちのシェルター、私たちの力、そして苦難にあえぐ時の確実な助けですから感謝します。
常にあなたに信頼して歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「いかに恐るべき事あるとも、御翼の影は安らかなり。
愛の神は、如何なる時にも、頼る我が身保護したまわん。」
(実際の歌詞とは一部異なります。)

2022年11月29日 (火)

ヤハウェ(主)に対する信頼と不信頼の結果(申命記1:19-46)

 申命記119-21には次のように記されています。
“19
私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに命じられたとおりに私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野、すなわちアモリ人の山地への道を進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20
そのとき、私〔モーセ(筆者挿入)〕はあなたがた〔イスラエルの民(筆者挿入)〕に言った。
「あなたがた〔イスラエルの民たち(筆者挿入)〕は、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに与えようとされるアモリ人の山地に来た。21 見よ、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの地をあなたの手に渡してくださった。
上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」(2017)とあります。

 申命記119-21に記されている内容は、民数記1216と民数記131の空白を埋める部分であったのでしょう。
ヤハウェ(主)は、本来は、偵察隊など必要なく、モーセの指導の下、イスラエルが主に信頼して、カナンの地に入って行くことを望んでいたのです。

 モーセとイスラエルの民たちのヤハウェ(主)への不信頼が偵察隊派遣へと繋がっていったのです。22,23節には次のように記されています。
“22
すると、あなたがたはみな私のもとに近寄って来て言った。
「私たちより先に人を遣わし、私たちのためにその地を探らせよう。そして、私たちが上って行く道や入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」
23
私にはこのことが良いことと思われたので、私はあなたがたの中から各部族ごとに一人ずつ、十二人を選んだ。2017)とあります。

 この件に関して、民数記131-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
2
「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」
3
モーセは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエルの子らのかしらであった。2017)とあります。

 民数記の方は、ヤハウェ(主)の命令で偵察隊を派遣したようになっていますが、本当は、ヤハウェ(主)が人心の状態を読んで、一歩引きさがり、偵察隊の派遣を受け入れ、偵察者たちを送ることを命じたのでしょう。

 カナンの地の状態についての偵察隊の報告が、24,25節に次のように記されています。
“24
彼らは出発し、山地に向かって上って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを偵察した。
25
彼らはその地の果物を手に入れ、私たちのもとに持って帰って来た。そして報告をし、「私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。”(2017)とあります。

 民数記によると申命記125節と26節の間に次のような偵察隊の報告があったと記されています。
“28
「ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。29 アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」
30
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。
「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」
31
しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。
「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」
32
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。
「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 私たちは、そこでネフィリム〔巨人(筆者挿入)〕を、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(民数記13章・2017)とあります。

 主のご命令は、カナンの地を占領しなさい、ということでした。
申命記121を再掲しますと、
見よ、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの地をあなたの手に渡してくださった。
上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」とあります。

 ヤハウェ(主)に対する不信頼、不服従のイスラエルの大部分の民の状態とモーセの励ましが、申命記126-33に次のように記されています。
“26
しかし、あなたがた〔イスラエル人たち(筆者挿入)〕は上って行こうとせず、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に逆らった。
27
そして天幕の中で不平を言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。28 私たちはどこへ上って行くのか。私たちの兄弟たち〔12人の偵察隊の内の10人(筆者挿入)〕は、『その〔カナンの(筆者挿入)〕民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく、城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た』と言って、私たちの心を萎えさせた。」
 29 それで私〔モーセ(筆者挿入)〕はあなたがた〔イスラエル人たち(筆者挿入)〕に言った。
「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。30 あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたのために戦われるエジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように31 また荒野では、この場所に来るまでの全道中、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、人が自分の子を抱くようにあなたを抱いてくださったのを、あなたがたは見ているのだ。32 このようなことによっても、まだあなたがたはあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を信じていない。33 主はあなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行き、夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示されるのだ。」〔この方こそ、あなたたちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である。(新共同訳)〕2017)とあります。

 ヤハウェ(主)に対する不信頼の結果は、何を引き起こしたのでしょうか?
申命記134-46には次のように記されています。
“34
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたの不平の声を聞いて怒り、誓って言われた。
35
「この悪い世代の者たちのうちには、わたしがあなたがたの父祖たちに与えると誓った、あの良い地を見る者は一人もいない。
36
ただエフンネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与える。彼が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通したからだ。」
37
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたのゆえに、この私〔モーセ(筆者挿入)〕に対しても怒って言われた。
「あなたも、そこに入れない。〔モーセがカナンの地に入れない理由は、ヤハウェ(主)に対するモーセの不信頼とヤハウェ(主)を聖とせず主の栄光を横取りしたこと{民数記2010-12}(筆者挿入)〕38 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアは、そこに入ることができる。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。
39
あなたがた〔イスラエル人たち(筆者挿入)〕が略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たちや、今はまだ善悪をわきまえないあなたがたの子どもたちが、そこに入る。わたしが彼らにそこを与えるので、彼らはそこを所有するようになる。40 あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。」
 41 すると、あなたがたは私に答えて言った。
「私たちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して罪を犯した。私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が命じられたとおりに、私たちは上って行って戦おう。」そして、それぞれ武具を身に帯びて、無謀にも山地に上って行こうとした。
42
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「彼らに言え。『上って行ってはならない。戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」
43
私があなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞かず、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命に逆らい、不遜にも山地に上って行った。44 するとその山地に住んでいたアモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が襲うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルで打ち破り、ホルマ〔「滅び」の意。エドムの領地の国境付近、ベエル・シェバの南東の地か。(注解付新改訳聖書の注)〕にまで及んだ。45 あなたがたは戻って来て主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で泣いたが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたの声を聞き入れず、耳を傾けられなかった。46 こうしてあなたがたは、実際にあなたがたがとどまったとおり、長い期間カデシュにとどまった。2017)とあります。

 46節には、“こうしてあなたがたは、実際にあなたがたがとどまったとおり、長い期間カデシュにとどまった。”とあります。
カデシュに40年滞在したのではありませんが、「長い期間」について、民数記2032-35には次のように記されています。
32 しかし、おまえたちはこの荒野に屍(しかばね)をさらす。33 おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。34 おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。35 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。」(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)に信頼しない者はさばかれました。
主であるイエス様は言われました。
「罪とはわたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と。
 ローマ109には、“・・、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”(ローマ109・口語訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに信頼しないことが如何程の罪なのか、逆に、あなたに信頼することをあなたが大いに喜んでくださるということを教えられます。
いつも主を愛し、主に信頼し、主に従って歩む者であらせてください。
信仰もあなたの恵みですから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ28・新共同訳)

2022年11月28日 (月)

隠された宝と良い真珠の譬え

 マタイ1336,44-46には次のように記されています。
“36
それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、・・・。
44
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
 45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46
高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。2017)。とあります。

 マタイ133-33は群衆と弟子たちに語られたのです(マタイ131,2.34参照)が、36節には、それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、・・・。とあり、それ以降の記事は、時系列的に記されているとすると52節までは群集に対して語られたのではなく弟子たちに語られたことになります。

 このことから、聖書の話を未信者の方に話す場合、話す内容は、聖書の話なら何を話しても良いというのではないことを学ばせて頂けます。聞く側の立場に立って、話す内容を考えるべきであることを教えられます。

 44aには、「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」とあります。
畑は、天地のうちの地にあります。その地の畑の中に、宝が隠されているのです。それも天の王国という宝です。天の王国は天にありますが、地にもあるのです。
「国」、「王国」と記した語のギリシア語原語は「バシレイア」で、その原義は、王室、王族の意です。天の王族が地にもいる、ということになると、それは御父がキリストにあって選び定めた神の子どもたちです(エペソ14、ローマ829,301ヨハネ31,2)。
天の王の領域や天の王が支配されているところは天の王国(他の表現では、天の御国、天国)です。
私たちは、それを教会と呼んでいます。
エペソ123には、教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ〔「場」(新共同訳)〕です。2017)と記され、
岩波訳は、この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。と訳しています。

 霊の教会は、キリストの体です。
1
コリント130aには、“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。”(2017)とも記されています。

 44節には、“天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。”とあります。
「その宝を見つけた人は、」と記されている「人」のギリシア語原語は単数形です。ですから人々ではありません。
44
cには、「・・喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」ということをした一人の人がいることを教えてくれています(語られた時点では未来のことであったのですが)。それは人となられたイエス・キリストです。
ヘブライ(ヘブル)122には、“・・・。この方〔イエス(筆者挿入)〕は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 御子は、贖いのために与えられた体をすべて売り払ったのです(ヘブル105-10参照)。
ローマ83には、“肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。”(2017)と記されています。
いのちにはいのち(申命記1921)であり、肉のいのちは血の中にある(レビ1711)のです。
エペソ17には、“このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017)と記されています。

 45.46節には、
“45
天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。と記されています。
45
節の主語は「天の御国」(天の王国)です。
再度書きますが、「国」、「王国」と記した語のギリシア語原語は「バシレイア」で、その原義は、王室、王族の意です。
45.46
節の「商人」{(ギ)エムポロー}と訳されている語のギリシア原語は単数形です。
45.46
節の「商人」も44節の「宝を見つけた人」と同じように、イエス・キリスト様を指していると思います。説明は44節の内容と同じようなものです。

 私が救い主イエス・キリストを信じる信仰を持たせていただいてからしばらくの間は、主なる神様中心ではなく、人(自分)中心で聖書を読んでいました。その頃は、この箇所をきちんと読むことは出来ず、大雑把に読み、イエス様を信じるということは、すべてを捨てても構わないほどのことなのだなー、というぐらいに捉えていたのです。
いつからかは分かりませんが、そのような私も、「主権者は主なる神である」という読み方をすることが出来るように、主は変えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの愛に基づく御摂理を感謝します。
御子の恵みの中心である十字架とご復活を感謝します。
御聖霊の御働きを感謝します。
聖霊様が遣わされなくては、「イエスは主である」と言うことができなかったことを覚えます。
三一の主の恵みの故に今の私があることを覚え、御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月27日 (日)

正しく自分を愛する者

 箴言198を、
2017
は、
良識を得る者は自分自身を愛する者。英知を保つ者は幸いを見つける。と訳し、
聖書協会共同訳は、
思慮を得る人は自分の魂を愛し、英知を守る人は恵みを見いだす。と訳し、
新共同訳は、
“心を得た人は自分の魂を愛する。英知を守る人は幸いを見いだす。”と訳しています。

 「良識」(2017)、「思慮」(聖書協会共同訳)、「心」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「レーブ」で直訳は心です。
レーブの原義は、心、心臓で、知性、感情、意志、何かの中心としても用いられ、理解、知恵、賢明さ等の意でも用いられます。

 「自分自身」(2017)、「魂」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」で、息をしている生き物、息、魂、自身、人、個性、・・・等の意で用いられます。

 「英知」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターブーン」で、知性、理解力、聡明さ等が原義で、議論、討論、気まぐれ、移り気、熟練していること、巧みさ、悟性、英知等の意で用いられます。

 「自分自身を愛する者」(2017)とありますが、人は大抵自分自身を愛しています。その愛し方は人によって異なりますが。
もし人に自己保身の本能が無いとしたら人はどうなるでしょう。

 肉の性質のみの心で、自分自身を愛する人は、とても自己中心的でしょう。
肉のわざについて、ガラテヤ519-21は、次のように記しています。
“19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。2017)とあります。
肉のわざの善行と言われるものは、良いことを行っても、それは自分自身の利益のためです。

 「心を得た人は自分の魂を愛する。」(新共同訳)とあります。
ピリピ25には、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。」(文語訳)とあります。
キリストの心を得た人こそ、本当の意味で、自分の魂を愛する人でしょう。
神の御旨にかなわない魂は、滅ぼされますから(黙示録2011-15)。
マタイ1028には、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(2017)というイエス様の御言葉が記されています。

 日本語訳聖書の多くが、マタイ53を「心の貧しい人は幸いです。」の意で訳しています。
キリスト・イエス様の心は貧しいでしょうか?
原語を直訳すると、前田訳のように、「さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。」ということになるでしょう。
マタイ53を直訳すると、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は 天国は彼らのものだから。」(私訳)となると思います。
 霊の中で、主が満ち満ちてくださることを、ひたすら求める者の心は豊かになることでしょう。
「祝福されています。霊の中で〔主に、満ち満ちてくださいと(筆者挿入)〕乞い求める人は。天の御国〔原語の意味→天の王国、天の支配(筆者挿入)〕はその人のものだからです。」(私訳)
イエス様は、「みこころが天で行われるように、地でも〔「私の内でも」とも祈れます(筆者挿入)〕行われますように。」(マタイ6102017)と祈るようにと教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
キリストの心を心として歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月26日 (土)

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 うなだれ、思い乱れているときの回復方法の一つ、それは賛美です。
詩篇435には次のように記されています。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。2017)とあります。

 詩篇42-44篇は、ユダヤの民が、捕囚の地にあった時に詠まれた詩であったのだろうと思います。
 キリスト者に置き換えて言えば、キリスト者が主と共に歩んでいた状態から、キリスト者の方がキリストに背を向けて歩み出し、かつそれを続け、その結果、サタンのいいようにされ、まるでサタンの奴隷のような状態の中で、主に立ち返り、主を求めている詩のように思えます。

 しかし、詩篇435は、上記のようなキリスト者ではなくても、即ちいつも主と共に歩んでいるつもりなのに、この世において様々な苦難に会うとき、たましいはうなだれ、思い乱れるということを経験する場合にもあてはまると思います。

 キリスト者が苦難に会うことは主の御旨の内の一つでもあります{主の御旨から外れている故に会う苦難もあります(1ペテロ220a)}
主イエス様が十字架にかかられる前に持たれた最後の晩餐の時に、主イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られました。
キリスト者であれば、この世において苦難があるのは普通のことです。
しかし、苦難の中にあっても主に在る歩みをしている者には平安があるのです。
ヨハネ1427には、イエス様の次の様な御言葉が記されています。
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(2017)とあり、
同じ個所を新共同訳は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と訳しています。

 主キリスト(メシア)が降誕した時に天使たちは歌いました。それはルカ214に記されていますが、ルカ28-15を聖書協会共同訳で下記します。
“8
 さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
9
 すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10
 天使は言った。
「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。
11
 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア〔キリスト(筆者挿入)〕である。12 あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」
13
 すると、突然、天の大軍〔天の軍勢(2017)〕が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
14
 「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ〔直訳「神に喜ばれる人にあれ」(欄外注)〕。」
15
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。とあります。

 14節の「平和」と訳されている語のギリシア原語は「エイレーネ」でヘブライ語では「シャローム」です。平和、平安の意がありますが、更に、繁栄、健康等の意もあります。

 平和、平安は、「神に喜ばれる人にあれ」と天使たちは賛美していました。
天使たちは、平和に世界に来るように、とか日本が平和であるように、とは言いませんでした。
天使たちの賛美は、「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和(平安)、神に喜ばれる人にあれ。」というものでした。

 さて前置きが長くなりましたが話を元に戻します。
詩篇435には、わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。2017)とありました。

 善いことをしたのに、神に喜ばれることをしたのに、幾度もむちで打たれ、牢に入れられてしまった人たちの中に、パウロとシラスがいました。
パウロとシラスは牢の中でどのように過ごしていたでしょう。
使徒1625には、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。2017)と記されています。

 詩篇5015には、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(新改訳第三版)と記されています。
しかし、祈ってもその答えが直ぐには来ないということもあるでしょう。

 苦難の日には主を賛美するという方法もあります。
聖歌や讃美歌、あるいはその他の主を賛美する讃美集の中の詩歌を用いて主を賛美していると、苦難の中にあっても平安に過行くことができるという方法もあります。
主は賛美の上に座する方or賛美を住まいとする方です{(詩篇224)新改訳、口語訳、リビングバイブルは3節}。

 悪魔(サタン)悪霊は、主への賛美を嫌います。
聞きたくもないでしょう。
ということは、賛美中には、彼らはあまりやって来ないのです。

 一方、主は賛美を喜ばれます。主が、主を賛美するように私たちに命じられたのですから(2歴代誌2925)。
それ以上に、キリスト者は主を賛美するために生まれたのです(エペソ16,12,14)。
詩篇102篇には、・・・新しく造られる民が主を賛美しますように。18節・2017)とあり、同じ個所を新共同訳は、・・・主を賛美するために民は創造された。19節)と訳しています。
賛美は、私たちキリスト者の主へのささげ物の一つです(ヘブル1315)。

 賛美は、信仰をもって賛美している人にも主が益を与えてくださいます。
歌詞の内容によって、主の偉大さを再確認することもあるでしょうし、過去の恵みを覚えて感謝の思いがわいてくることもあるでしょう。また、信仰が増されたり、希望を与えられることもあるでしょう。その他、良いことがたくさんあります。

 聖書の聖句を暗唱するように、聖歌や讃美歌の歌詞も暗唱すると恵みは大きいです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖歌や讃美歌の歌詞を今以上に多く暗唱することを得させてください。
賛美できる時間のある時には、賛美しながら歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月25日 (金)

シナイ(ホレブ)からの出発命令と組織の建てあげ

 申命記16-8には、シナイ(ホレブ)からの出発命令とヤハウェ(主)の約束が、次のように記されています。
“6
私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はホレブで私たちに告げられた。
「あなたがたはこの山〔ホレブ山=シナイ山(筆者挿入)〕に十分長くとどまった。7 あなたがたは向きを変えて出発せよ。そしてアモリ人の山地に、またそのすべての近隣の者たちの地、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。
8
見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、彼らとその後の子孫に与えると誓った地である。」”(2017)とあります。

 ホレブ(シナイ)の場所で何があったでしょうか?
シナイにおいてヤハウェ(主)とイスラエルは契約を結びました。その契約の中心は十の言葉(十戒)と契約における規定条項です。そして血による契約を結んだのです(出エジプト191-248)。

 6
b-7aには、「あなたがたはこの山〔ホレブ山=シナイ山(筆者挿入)〕に十分長くとどまった。7 あなたがたは向きを変えて出発せよ。」とありますが、ホレブ(シナイ)には1年弱滞在していました。シナイの荒野を旅立ったのは、二年目の第二の月の二十日でした(民数記1011.12)。なお、出エジプトした民がシナイの荒野に入ったのは第3の月の新月の日でした(出エジプト191)。

 7b-8節には、イスラエルに対し、ヤハウェ(主)がモーセを通して語られた命令と約束と励ましの御言葉が次のように記されています。
「そしてアモリ人の山地に、またそのすべての近隣の者たちの地、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、彼らとその後の子孫に与えると誓った地である。」とあります。

申命記19-18には、組織の建てあげについての行い方が次のように記されています。
9 私はあのとき、あなたがたにこう言った。
「私一人であなたがたを負うことはできない。10 あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを増やされたので、見よ、あなたがたは今日、空の星のように多い。11 どうか、あなたがたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを今の千倍にも増やしてくださるように。そして、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。
12
どのようにして、私一人であなたがたのもめごとと重荷と争いを負いきれるだろうか。
13
あなたがたは部族ごとに、知恵があり判断力があり経験に富む人たちを出しなさい。彼らをあなたがたのかしらとして立てよう。」
14
すると、あなたがたは私に答えて、「あなたがしようと言われたことは良いことです」と言った。
15
そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり経験に富む人たちを選び取り、彼らをあなたがたの上に立つかしらとし、あなたがたの部族の千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、つかさたちとした。
16
そのとき、私はあなたがたのさばき人たちに命じた。
「あなたがたの同胞相互の言い分をよく聞き、ある人とその同胞との間、また寄留者との間を正しくさばきなさい。17 裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」
18
私はまた、そのとき、あなたがたが行うべきすべてのことを命じた。〔その時、私はほかにもいろいろと指示しました。(リビングバイブル)〕2017)とあります。

 9-18節の箇所は、モーセのしゅうとイテロの助言(出エジプト1819-23)と、その助言を受け入れたモーセによるイスラエルの民に対する命令と実行(出エジプト1824-26)が記されています。
 16b-17dの裁くときの注意について、聖書には記されていませんが、モーセはイテロの助言を受ける以前にヤハウェ(主)に教えられていたのかも知れません。
ヤハウェ(主)がモーセを通して語られた裁くときの注意事項が、出エジプト236-8に次のように記されています。
6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。
7
偽りの告訴から遠く離れなければならない。
咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。
8
賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」(2017)とあります。

 13節には、「あなたがたは部族ごとに、知恵があり判断力があり経験に富む人たちを出しなさい。彼らをあなたがたのかしらとして立てよう。」とありますが、初代教会時代の執事(役員)の選びかたの最初は使徒63に次のように記されています。
・・、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。2017)とあります。

 旧約時代の御霊は、必要な時に、必要な人に臨みましたが、新約時代においては、主イエス様を信じた人の内に住んでくださっておられます。
使徒63の、御霊に満ちている人というのは、御霊に委ね従っている人のことです。

 更に時が少し下ると、次のように記されています。
“1
次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
2
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、3 酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。
5
自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。
7
また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲(あざけ)られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。
8
同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、9 きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。
10
この人たちも、まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事として仕えさせなさい。
11
この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
12
執事は一人の妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。1テモテ31-122017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
モーセの回顧を通してあなたの導きを再度学ばせてくださりありがとうございます。
いつもあなたの導きに従って歩み続けることができますよう御聖霊が助けてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月24日 (木)

レジャーシート ゲキレンジャー 1人用 バンダイ 遠足

 マタイ1331-35には次のように記されています。
 聖書協会共同訳は、
“31
 また、別のたとえを彼らに示して言われた。
「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔くと、32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
33
 また、別のたとえをお話しになった。
「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」
34
 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いずには何も語られなかった。35 それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「私は口を開いてたとえを語り、天地創造の時から隠されていたことを告げよう。」と訳し、

 リビングバイブルは、
“31
また、イエスは、こんなたとえ話もされました。
「天国は、畑にまいたからし種のようなものです。32 それはどんな種よりも小粒ですが、生長すると大きな木になり、鳥が巣を作れるほどになります。」
33
さらに、こんなたとえも話されました。
「神の国は、女の人がパンを焼くのにも似ています。小麦粉に、ほんの少しのパン種(パンの製造に使用するイースト菌)を入れるだけで、パン生地全体がふくらんできます。」
34.35
群衆に話をする時、イエスはいつも、このようにたとえで語られました。それは、預言者によって言われたことが実現するためでした。
「わたしはたとえを使って語り、世の初めから隠されている秘密を説き明かそう。」と訳しています。

聖書協会共同訳が、「天の国」と訳した箇所を、
新共同訳、フランシスコ会訳も「天の国」と訳し、
新改訳は、「天の御国」と訳し、
文語訳、口語訳、リビングバイブル旧版は「天国」と訳し、
リビングバイブル新版は「天国」(31)、「神の国」(33)と訳し、
岩波訳は「天の王国」と訳しています。

ギリシア語原語は、「バシレイア」(王国)、「ウーラノス」(天)の複数形で、各単語の前には定冠詞がついています。

「バシレイア」には、王国、王権、王領、王族、支配、権威、等の意があります。
「ウーラノス」は、天ですが、申命記1014には、“見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。”(2017)と記されています。

 今日の聖書箇所における「天の王国」とは、いわゆる教会、すなわち人の目に見えるキリスト教会を指していると思います。

 先ずは表面的な単純な解釈を記します。
からし種の譬えも、パン種の譬えも、教会は、初めは小さくても大きな教会になる、という解釈です。

 しかし、これらの譬えを他の聖書箇所も参考にして読むと、話は変わってきます。
からし種を蒔いたのは、イエス・キリスト様です。
それはどんどん成長しました。
しかし、喜んでばかりもいられません。教会は、この世に根を張ったのです(大きな木は地に根を大きく張ります)。
この世の大きな木となった枝には、空の鳥が来て枝に巣を作りました。
この空の鳥とは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(マタイ133.4・聖書協会共同訳)とイエス様が語られた鳥であったとしたら、鳥とは「悪い者」(マタイ1319)であって、それは悪魔(サタン)悪霊のことです。
 
 一例をあげると、黙示録212.13には次のような文章があります。
“12
また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。13 わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。2017)とあります。

 主イエス様が、御言葉の種を蒔くとともに、贖いを成し遂げて、教会(神が呼び集められた者たちの集まりであるエクレシア)をたてました。しかし、教会歴史は、黙示録2‐3章の預言のようになったのです。

 パン種の譬えについても他の聖書箇所をも参考にして読むと、話は変わってきます。
パン種の入っていないパン生地にパン種を入れるのは「女」です。
黙示録218-25には次のように記されています。
“18
また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──。
19
わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。
20
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。
21
わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。
22
見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。
23
また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。
24
しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
25
ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。2017)とあります。
また黙示録171-6も参考になると思います。

 聖書の御言葉から離れてはいけないということを強く思います。(申命記42、箴言306、黙示録2218参照)

 35
節には、「私は口を開いてたとえを語り、天地創造の時から隠されていたことを告げよう。」とあります。
ヘブル11.2には、神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。2017)とあります。
それは聖霊が教えてくださることも含まれています。
ヨハネ1612-15には次のように主イエス様の御言葉が記されています。
12 言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。13 しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に〔直訳は「自分から」(欄外注)〕語るのではなく、聞いたことを語り、 これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御聖霊に教えられながら歩める日々を感謝します。
あなたの御旨の内を歩み、ますますあなたを知り、あなたをほめたたえる者とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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2022年11月23日 (水)

正しい知識と誤った知識

 箴言192.3をいくつかの日本語訳聖書は次のように訳しています。
聖書協会共同訳は、
“2
知識のない魂は困ったもの。足を急がせると罪を犯す。
3
無知であると、人間は自分の道を誤り、しかも主に対して心をいらだたせる。と訳し、
2017
は、
“2
たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る。
3
人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かって激しく怒る。と訳し、
新共同訳は、
“2
知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。
3
人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。と訳し、
リビングバイブルは、
“2
よく調べもせずに突っ走るのは、失敗のもとです。
3
人は自分の不注意でチャンスを逃(のが)しては、それを主のせいにします。と訳しています。

 2節についてBIBLE navi は、次の様な勧めをしています。
私たちはよく、人生の中で急いで行動し、未知に向かってまっしぐらに突き進む。ある人たちは、結果について考えずに不正な性的関係を持ったり薬物に手を出したりする。ある人たちは、自分がその系列の仕事に適しているかどうかを考えずに仕事に飛びつく。知識のない熱心さは良くないし、悪い状況をよくもしない。未知に飛び込んではならない。第一歩を踏み出す前に、あなたがどんな中へ入ろうとしているのか、どこへ向かっていきたいのかを理解しよう。将来起こるすべてを知ることは出来ないが、下調べをし、正しい質問をし、神に従っているかどうかを確かめよう。と述べています。

 3節には、人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かって激しく怒る。2017)とあります。
「滅ぼす」と訳されている語のヘブライ語原語は「サーラフ」で、ねじる、ひねる、が原義で、(人に)悲痛な思いをさせる、身をよじる、破滅させる、腐敗させる、誤らせる、・・等の意もあります。

 私は、聖書の解釈の仕方も大切であると思います。
旧約時代の神様の約束と、新約時代の神様の約束を比べると、異なっている場合があります。神様の各時代のご計画というものがあるのでしょう。

 子供が与えられなくて、がっかりしているキリスト者に会うことがあります。
旧約の時代は、“3 見よ、子どもたちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の賜物。胎の実は報酬。4 若いときの子どもたちは、実に、勇士の手にある矢のようだ。5 幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき、恥を見ることがない。(詩篇127篇・2017)と記されています。

 新約時代は、キリスト者は神の家族の一員です。神の家族とされた人は地に属するのではなく、天の王国、即ち御父の王国に属するものです。神の家族として生み出される人がおこされるように主のご命令に従う人が主に喜ばれる人なのです。神の子どもを生み出してくれるのは人ではなく神の霊です。
 ヨハネ36には、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」(口語訳)と記され、
1
コリント123には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(新改訳)と記されています。
神の子どもを生み出すのは、人ではありません。しかしキリスト者は、証しをしたり、御言葉を伝えたりすることにより、主のおてつだいをすることができます。
御言葉を伝えることの中には、直接御言葉を語ることの他にも、トラクトを渡したり、聖書を渡したり、福音番組を教えたり、福音を記しているネット情報を教える等々、様々な方法があります。

 旧約時代の祝福の中には、地上の財産の豊かさという項目もありました。
申命記28章には次のように記されています。
“1
もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4
あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
11
主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12
主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。2017)とあります。
 
 地上の豊かさについて、新約時代になってからの主なる神様の御方針はどのようになったでしょうか。
ヘブル135には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)と記され、
1
テモテ6章には、
“7
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。8 衣食があれば、それで満足すべきです。9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。2017)と記されています。
しかし、生活の保障もされているのです。
ピリピ419には、この神様は、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことに基づいて、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたに必要なもの〔ぜいたくなものではありません(筆者挿入)〕をすべて満たしてくださる方です。(リビングバイブル旧版)と記され、
主イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの〔31節より「衣食」(筆者挿入)〕はすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6332017)と語られました。

 キリスト者が豊かに与えられたものは、霊的なものでした。
エペソ13には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの子どもとして、正しい知識を与えられて、あなたの御旨にかなった道を歩み、この地上で様々なことに遭遇しても、いつもあなたを主キリストにあって賛美しながら、感謝しながら歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月22日 (火)

いつも渇くことのない新約時代の恵み

 詩篇421.2.3aには次のように記されています。
“1
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2
私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつになれば、私は行って、神の御前に出られるのでしょうか。
3
昼も夜も、私の涙が、私の食べ物でした。2017)とあります。
(文語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、表題を1節としているので、この箇所は2-4a節になります。)

 6節には、私の神よ、私のたましいは、私のうちでうなだれています。それゆえ、私はヨルダンとヘルモンの地〔ヨルダン川源流のヘルモン山の周辺(注解付新改訳聖書の注)〕から、またミツアルの山〔レバノン山脈の一部であろう(注解付新改訳聖書の注)〕から、あなたを思い起こします。2017)とあります。
旧約時代の神の宮はエルサレム神殿でした。

 主なる神に対するこの渇きの情景を読むと、救い主イエス様が、十字架上で、私たちの罪を一身に負い、神から引き離された時の情景が思い起こされます。
イエス様は、永遠の過去から、常に御父と一緒でした。
しかし、私たちの罪を身代わりに負い、十字架上で罪そのものとなり、御父から断絶されたのです。
贖いが成就するころ、イエス様は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27462017)と叫ばれ、その後、「わたしは渇く」(ヨハネ19282017)と言われたのでした。

 神様と断絶していると渇くのです。
その渇きを何かで満たそうとしているのが、罪の故に神様と断絶している人間です。
この渇きは、主イエス様を信じ、自分の心の王座にイエス様にお座りいただくと消失するのです。

 話は変わりますが、イエス様がサマリヤの地に行き、サマリヤの女性に次のように言いました。
「この水〔飲料水(筆者挿入)〕を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ413.142017)と記されています。

 またイエス様は、1週間続く仮庵の祭の最後の日に次のようにも語りました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ737.382017)と記されています。
使徒ヨハネは、この水は聖霊であると、ヨハネ739で解説しています。次のように記されています。
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(ヨハネ7392017)とあります。
(ギリシア語聖書のTRには、「御霊」の箇所は「プニューマ ハギオン(ハギオス)」で直訳すると「聖い霊」です。)

 イエス様の御功績の故に、新約時代は、キリスト者の内に聖い霊が住んでくださっておられます。
新約時代は、エルサレムで祈りをささげなくてもよい時代になりました。
前述したサマリヤの女性に、イエス様は、「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ421-24・聖書協会共同訳)と語られたと記されています。

 新約時代は、どこにおいても礼拝することが出来、祈ることが出来、主を賛美することができる時代です。とはいえ、キリスト者が共に集まることには意味があります。今はそれには触れませんが、ヘブル1025には、ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。2017)と記されています。

 キリスト者でも霊的に渇いてしまうことがあります。
渇いてしまう原因の一つに「御父との壁」があります。
イエス様は次のように語られました。
「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ6152017)と記されています。
救われたキリスト者でも、示された罪を告白せず、そのままにしていると、祈りが御父に届かなくなり、むなしくなるのです。
 イザヤ591.2には次のように記されています。
見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します
イエス様の十字架と復活によって、イエス様を信じる者は、罪を赦され、義とされ、神のものとして聖別され、神の子どもとしてまずは新生させていただき、永遠のいのちを与えられて歩ませていただけていますからこれ以上ないという感謝をささげます。
更にイエス様の現れの時、即ちキリストの空中再臨の時、永遠にして、強く美しい霊の体を与えてくださり、更には、その後に天において、イエス様との婚礼の儀を儲けてくださいますからありがとうございます。
地上にあっては、示された罪をそのままにしていると、霊のお父様は、私たちを矯正するために、距離をおとりになることがありますが、直ちに罪を告白すればきよめてくださいますから感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。1ヨハネ192017
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(詩篇5015・新改訳第三版)
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。1ヨハネ5142017

2022年11月21日 (月)

上に立てられた者の責務/申命記の内容は短期間に語られた

 申命記11-5には次のように記されています。
“1
これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。ヨルダンの川向こう、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフに面したアラバの荒野でのことであった。
2
──ホレブからセイル山を経てカデシュ・バルネアに至る道のりは、十一日である──
3
第四十年の第十一月の一日にモーセは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの子らのために彼に命じられた、すべてのことにしたがって、彼らに語った。
4
それはモーセが、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグを、エデレイで打ち破った後のことであった〔民数記2121-35に、この時の戦いの記録が記されています(筆者挿入)〕。
5
ヨルダンの川向こう、モアブの地〔死海の東側(筆者挿入)〕で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした。2017)とあります。

 民数記261-51には、出エジプトしてから40年近く経った時の人口調査の人数が記されています。〔この時にはアロンも死んでいます(民数記2022-29参照)〕
それによると、20歳以上でイスラエルにあって軍務につくことの出来る者(民数記262)の人数は、601,730人であったと記されています(2651)。
ということは、女性や子供たちを含めたイスラエルの全人口は200万人を超えていたかもしれません。

 1節には、“これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。”とありますが、120歳のモーセが、おそらく200万人以上という多くの人々に聞こえるように語れたとは思えません。
おそらくモーセは、族長たちや、おもだった者たち、即ちイスラエルの部族の代表者たちを集めて語ったのでしょう。イスラエルの部族の代表者たちは、またその部族の者たちに語ったのではないかと思います。
もしも、約120歳のモーセが全員に届くように語ったとしたら、それはヤハウェ(主)が何か特別なことをしたのだろうと思います。神ヤハウェ(主)には出来ないことがありませんから。

 リビングバイブルは、1-5節を次のように意訳しています。
“この書は、モーセがヨルダン川の東、モアブ平原のアラバ渓谷でイスラエルの人々に向けて語った時の記録です。当時、イスラエルの人々はそこに野営していましたが、付近にはスフ、パラン、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブなどの町がありました。
この時、ホレブ山(シナイ山)を出発してから四十年目の第十一の月の一日(太陽暦二月十五日)でした。ホレブ山のふもとからカデシュ・バルネア(約束の地パレスチナの南端)までは、セイルの山地を通れば、普通なら歩いても十一日ほどで来られます。それはともかく、ヘシュボンでエモリ人の王シホンを、エデレイに近いアシュタロテでバシャンの王オグを打ち破ったあとのことでした。ここにたどり着くまでの間、主はいろいろな律法(教えと定め)をモーセを通して伝えましたが、それを全部まとめて、もう一度、モーセが説明し直したのです。”と記しています。

 モーセは40歳の時に、同胞を省みる思いを与えられました(出エジプト211.12、使徒723.24)が、同胞には理解してもらえず、ファラオから追われる立場となりミディアンの地に逃げました(出エジプト215、使徒729)。
モーセが80歳の時、モーセはヤハウェ(主)にお会いしました(使徒730)。
そして申命記を語り終えようとしていた時、モーセは120歳になりました。
 申命記311.2には次のように記されています。
それからモーセは行って、次のことばをイスラエル全体に告げて、彼らに向かって言った。「私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。・・・。」2017)とあります。

 主はモーセにモーセの最後を告げられます。
申命記3248‐50には次のように記されています。
“48
この同じ日に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
49
「エリコの向かいにあるモアブの地の、このアバリム高地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。50 あなたの兄弟アロンがホル山で死んで、その民に加えられたように、あなたも、これから登るその山で死に、あなたの民に加えられる。」2017)とあります。

 モーセの死について申命記345-8には次のように記されています。
“5
こうしてその場所で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命によりモアブの地で死んだ。
6
主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。
7
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
8
イスラエルの子らはモアブの草原で三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。2017)とあります。

 モーセが死んだ時には、出エジプトした民で20歳以上であった人は、ヨシュアとカレブだけでした〔民数記1429-33、申命記135.36、ヨシュア146-12参照(筆者挿入)〕。モーセも出エジプトの時に過越を経験してから40年間で召されたのでした。

 以上のことから、申命記は、極めて短期間{おそらく一カ月間くらい(筆者挿入)}でモーセが説教したことになります。
モーセは自分の死のまじかに語ったのです。というか、主がモーセに語らせたのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。 
あなたの御名を賛美します。
もし私がその時代に20歳位で生きていて、モーセが語った申命記の内容を聞いたとしたら、一体どこまで理解し、覚えることができただろうかと思うと甚だ心もとないです。
シナイ山から律法の契約をするところまでの時代には存在していなかったのですから。
もしも私が旧約の民であったとしたら、とてもついて行けないな、と思いました。
主は私に聖書も与えてくださって、丁度良いときに、この世に置いてくださったのでしょう。
ありがとうございます。
その上、今は恵みの時代です。
御聖霊が導いてくださいますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月20日 (日)

毒麦の譬え

 マタイ1324-30は次のように記されています。
“24
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
「天の御国は次のようにたとえられます。
ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25
ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
26
麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
27
それで、しもべたちが主人のところに来て言った。
『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生(は)えたのでしょう。』
28
主人は言った。
『敵がしたことだ。』
すると、しもべたちは言った。
『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
29
しかし、主人は言った。
『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」2017)とあります。

 毒麦の譬えの解説は、マタイ1336-43に次のように記されています。
“36
それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。
すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37
イエスは答えられた。
「良い種を蒔く人は人の子です。
38
畑は世界で、
良い種は御国の子ら、
毒麦は悪い者の子らです。
39
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、
収穫は世の終わり、
刈る者は御使いたちです。
40
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。2017)とあります。

 新改訳が「天の御国」と訳した箇所を、
文語訳、口語訳、リビングバイブル旧版は「天国」と訳し、
新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は「天の国」と訳し、
リビングバイブル新版は「神の国」と訳し、
岩波訳は「天の王国」と訳しています。
ギリシア語原語は、「バシレイア」(王国)、「ウーラノス」(天)の複数形で、各単語の前には定冠詞がついています。
「バシレイア」には、王国、王権、王領、王族、支配、権威、等の意があります。
「ウーラノス」は、天ですが、申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。2017)と記されています。

 今日の聖書箇所における「天の王国」とは、いわゆる教会、すなわち人の目に見えるキリスト教会を指していると思います。

 この世界に福音が蒔かれたのですが、福音と称する偽の福音も蒔かれます。
まことの福音はキリストがもたらしキリストに属するものですが、偽の福音はサタン(悪魔)がもたらしたものです。初代教会時代から、偽使徒、偽預言者が現れていました。
この世が言うところのキリスト教会の中には、キリスト・イエス様を信じて新生した人と新生していないのに教会員になっている人がいるのです。新生していない人の中にサタンが蒔いた人がいるというのです。
霊的な本物の教会は、キリストの体であり、キリストの花嫁です。

 誰が本当のキリスト者であるのかは分からないので、神の収穫の時迄、勝手に引き抜いてはいけませんよ、という教えです。

 毒麦の対処についてのイエス様の教えを再掲しますと、
“38
・・・、毒麦は悪い者の子らです。
39
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、
収穫は世の終わり、
刈る者は御使いたちです。
40
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。とあり、
収穫は、世の終わり、と記されています。
42.43
節の、収穫or火の燃える炉と思われる箇所は、黙示録に3箇所出て来ます。
黙示録149-201919-212011-15です。

 義人(主イエス様を信じて新生し、キリストの内に置かれ、キリストがその人の内に住んでくださっておられる人)については、43節に、
そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
恵みによって、主キリスト・イエス様を信じさせて頂けましたことを感謝します。
申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。2017)と記されています。
ヤハウェ(主)こそが、地球とその中の生きとし生ける者の所有者であり、宇宙の所有者であることを人々が認めるような時代が早く来ますように。
ピリピ210.11には、・・、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する・・。2017)と教えてくださっていますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ローマ89 “・・・。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。(口語訳)
1
コリント130 ・・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)
コロサイ127 この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(新改訳第三版)

2022年11月19日 (土)

誠実な人の幸い

 箴言191を、
新共同訳は、
貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。と訳しています。
 「貧乏」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーシュ」で、乏しい、極貧、貧困というのが原義です。
 「完全」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーム」で、原義は「完全」の意で、その他、潔白、(心の)純潔、満ちた、誠実、真摯、高潔、質素、正直な、公正な、(特に経済的な)繁盛,隆盛;幸運等の意で用います。

 「唇」と訳されている語のヘブライ語原語は「サーファー」で、唇、言葉の意です。

 「曲がった」と訳されている語のヘブライ語原語は「イケーシュ」で、曲げられた、ゆがめられた、正しくない、誤った、虚偽の、不誠実な、等の意があります。

 「愚か」と訳されている語のヘブライ語原語は「ケシール」で、原義は太った、で、愚かな、思慮のない、だます、欺く、等の意があります。

 箴言191を、
新改訳2017は、
貧しくても誠実に歩む者は、唇の曲がった愚かな者にまさる。と訳し、
新改訳初版~第三版は、
貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。と訳し、
聖書協会共同訳は、
貧しくても誠実に歩むことは、曲がったことを語る愚かな者にまさる。と訳し、
口語訳は、
正しく歩む貧しい者は、曲ったことを言う愚かな者にまさる。と訳し、
リビングバイブルは、
人をだまして金持ちになるより、貧しくても正直に生きるほうが幸せです。と訳しています。

 完全、誠実、正しく、正直、等に訳されている日本語訳聖書の原語は、「トーム」であると前述しましたが、これが経済的な分野では、繁盛、隆盛、の意に使われています。

 旧約聖書を読んでいると、ヤハウェ(主)に従う預言者で、かろうじてパンと水で命をつないでいた人たちは結構な人数います。
この預言者の方々は、主に対して「完全」に従っていたのだろうと思います。
預言者エリヤの時代、オバデヤはエリヤに次のように言っています。
「あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。」(1列王記18132017)と記されています。
エレミヤが監視の庭に入れられていた時も、パン一つでした(エレミヤ37212017)。

 現代の日本では、貧しいと言っても、着の身着のままパン一個、水は公園で、という人はあまりいないと思います。

 今は、私が住んでいる近くにホームレスの人をあまり見かけませんが、以前は、犬の散歩中に、ホームレスの人とよく会って話をしたものです。ホームレスの人が、うちの犬(おとなしい大型犬)にパンを一個くれたりするのです(そのようなホームレスの人には、後ほどお礼をしたこともありますが)。飼っていた犬は、ホームレスの人を分け隔てするようなことをしなかったので、その人たちもその犬から慰めをもらっていたのだろうと思います。

 戦中戦後の食糧難の中を生きてきた人たちは、相当な粗食でも人は生きれるのだということを経験してきていますが、日本が豊かになってから生まれた人々は色々な食べ物を知っていて、それらを食べることができなくなると恐怖を覚えるというような人もいるようです。
私が、子供の頃、仲が良かった子の中に、母子家庭の子がいました。その家に遊びに行った時にごちそうしてくれたのは、食パンの上にお砂糖を載せたものでした。その美味しさを今でも思い出します。その家では、それは大御馳走であったのです(栄養学は横に置いておいてください)。

 だいぶ脱線しました。話を元に戻します。
今日の聖句の中には、「誠実に歩む人」(新改訳、聖書協会共同訳)と記されている箇所がありますが、
「誠実」(トーム)は、御霊の実です。
「完全」(トーム)というのを聖書から考えると、主が私たちに言われているのは、主に対して、即ち主の御言葉に対して信頼しきること、並びに愛における完全ということを言われているのだと思います。

 この世は、富における繁栄を求めています。
私たちは、霊における豊かさを求める者です。
この世の支配者は悪魔(サタン)です。
私たちの支配者は、主なる神です。
主は約束されました。
主に対して誠実に生きている人は、主が養うよ、と。(詩篇3410、マタイ633、ピリピ419

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
この世のものを第一とするのではなく、いつもあなたを第一とし、主を愛し、主に信頼して歩む生涯を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年11月18日 (金)

親切な人は主から親切にされる

 詩篇411-3を、
2017
は、
“1
幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその人を助け出される。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼を見守り、彼を生かし、地上で幸せな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、病の床で彼を支えられますように。彼が病むとき、寝床から起き上がらせてください。と訳し、
 リビングバイブルは、
“1
貧しい者に親切な人は、神から祝福を受けます。その人が困難に会う時、主は助けの手を差し伸べてくださいます。
2
その人を無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を散らしてくださいます。
3
病気のときは、主ご自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。と訳しています。
(文語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、表題を1節としているので、この箇所を2-4節としています。)

 主なる神様を知らない人(体験していない人)は、1節の貧しい者に親切な人は、神から祝福を受けます。その人が困難に会う時、主は助けの手を差し伸べてくださいます。(リビングバイブル)という聖句を読んでも、主なる神様を排除して、人間同士にあてはめて捉えがちです。
 ことわざにも、「情けは人の為ならず」というのがあります。この意味は、人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということです。

 ややもすると自分が利益を得るために、貧しい人や困っている人に親切にしよう、ということになりますが、イエス様が教えてくださった教えはそれとは異なります。
イエス様が教えてくださっておられる文章を読むと、自分の利益を求めてのことではないことがわかります。

 聖書に出てくる親切は、愛に基づいたものです。
聖書に出てくる愛は、自分の利益を求めないものです(1コリント135)。
イエス様は、「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(聖書協会共同訳)と語られました。
人が、もしキリスト者に水を与えるという行為をしたとしたならば、それは、報いのためではなく、キリストを愛しているか尊敬している人だからだろうと思います。

 またイエス様が、キリストの千年王国の最初のところでもたれる裁きに関して、次のように語った箇所があります。
“31
人の子〔ダニエル713参照。キリスト(筆者挿入)〕は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32
そして、すべての国の人々〔大患難時代を生き残った人々(筆者挿入)〕が御前に集められます。
人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34
それから王は右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37
すると、その正しい人たちは答えます。
『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40
すると、王は彼らに答えます。
『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち〔大患難時代にキリストを信じていた人たち(筆者挿入)〕、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
41
それから、王は左にいる者たちにも言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
44
すると、彼らも答えます。
『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45
すると、王は彼らに答えます。
『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ2531-462017)と記されています。

 イエス様のたとえ話から見る、善いことをした人たちは、何かの報酬を求めて行ったようには思えません。親切な人たちであったのでしょう。

 キリストの千年王国の地上部分に入れる人達(地を受け継ぐ人たち)は、愛のある人なのでしょう。
キリスト者は、このさばきの対象外です。このさばきは、キリストの地上再臨時に、地上で生きながらえている人たちに対するさばきです。

 詩篇411-3のリビングバイブル訳は、
“1
貧しい者に親切な人は、神から祝福を受けます。その人が困難に会う時、主は助けの手を差し伸べてくださいます。
2
その人を無事に守って生かし、人前で面目を施させ、敵を散らしてくださいます。
3
病気のときは、主ご自身が看護にあたり、痛みをやわらげ、心配事を取り去ってくださるのです。とありますが、この箇所を思うとき、
イエス様が山上の垂訓の中で、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7・2017)と語られた御言葉を思い起こします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を信じ、イエス様を知り続けていく人、即ち体験し続けていく人は、哀れみ深くなることと思います。
なんと幸いなことでしょう。
主の御恵みを感謝し、御名を賛美しつつ主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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